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あの月に向かって

大杉勝男という強打者がいた。

右投右打。身長181cm、体重88kg。一塁を守った。

乱闘となれば真っ先にベンチを飛び出す。ここぞという場面で本塁打を放てば、スタンドにキッスを投げながらダイヤモンドを一周した。ファンを愛し、ファンに愛された。

現役生活19年の通算打率.287、486本塁打。史上初の両リーグ1000安打を達成した。

『週刊ベースボール』に見開きで掲載された12コマの連続カラー写真が手許に残っている。古い、透明なA4判のカードケースに入ったままだ。

大杉はヤクルトスワローズのユニフォームを着ている。1978年から1981年まで使用されたビジター用だ。ライトブルーの無地で、Vネックと袖口が赤く縁どられている。パンツの太いラインも同じ赤だ。

打ち終えた体勢と目線が、右中間への大きな当たりを推測させる。川上哲治が解説を書いている。

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1981年、僕は中学3年生になった。野球部を休まずに続けてはきたが、レギュラーになれないことはわかっていた。4番手の捕手兼スコアラーだ。 2番手と3番手は下級生だった。

イモッチと僕は1年生の時からキャッチボールのパートナーだった。姓が「ナガオ」だから「ナガイモ→イモッチ」。身長は180センチあって顔が小さかった。手脚が長くてバネがあった。走り幅跳びの選手として陸上部に駆り出された。

マウンドでは感情の起伏が激しいのに、普段は物静かで読書を好んだ。司馬遼太郎作品のファンだった。

長身から投げ下ろす速球が武器だったが、最上級生になって突然投球フォームを変えた。「俺の骨格は絶対アンダースローに向いている。研究したんだ」とイモッチは譲らなかった。夏の大会前の練習試合を2完投勝利して周囲を納得させた。

僕らが育ったのは房総半島の端の小さな町だ。40年前、学区内に県立高校は8校あった。僕は最も難関の「C高」を志望した。偏差値は当落線上にあった。

イモッチは学区内で野球の強い「H高」だ。

「イセヤ、『現在完了』教えてくれよ」

年が明けてからイモッチと教室に残って受験勉強することもあった。イモッチは英語が苦手だった。

そんな日は帰り道にマスダ精肉店に寄るのが楽しみだった。おばさんがいつもより少し厚めにハムを切ってくれる。白い紙に挟んで渡される揚げたてがしゅうしゅうと音を立てた。

「イセヤにあげてえもんがあんだ」ある晩、ハムカツを頬張りながらイモッチがスポーツバッグから取り出したのは『週刊ベースボール』だった。1980年11月3日号。広島カープの江夏が表紙だった。イモッチは『週べ』を定期購読していた。

「これにヤクルトの大杉の連続写真が載ってんだ」と彼は言った。「俺ずっと、イセヤは大杉を真似したらいいと思ってたんだ。ほんとは高井を目指したいんだっぺけど、高井の手首は特殊だ」

僕は小学校2年生の夏にオールスター戦でのサヨナラホームランを観て高井保弘のファンになり、阪急を応援していた。

1978年の日本シリーズ第7戦もテレビで観ていた。10月22日はよく晴れた日曜日だった。

そうだ、これから「砂漠」んとこ行って素振りするべ、とイモッチが言い出した。町の海岸には、童謡で有名な2頭のラクダの銅像と三日月を象った石碑がある。

「大杉は『月に向かって打て』ってコーチに言われて打撃開眼したんだ。イセヤもあすこで素振りしたらC高でレギュラーになれっど」

2人で肉屋から学校へ戻り、部室のバットを拝借して海へ自転車を飛ばした。息が白かった。

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僕はC高に滑り込み、少し迷って野球部に入った。イモッチは入学式を待たずにH高の練習に参加していた。

あの夜から大杉の連続写真を下敷代わりのカードケースに入れて持ち歩いていた。

練習を辛く感じたら大杉を眺めた。授業中も、通学電車の中でも。12コマを俯瞰することもあれば、1つ1つを仔細に検証することもあった。川上の「解説」も一字一句暗記してしまった。

2年生の夏、8月に入ると新チームで合宿だ。学校に1週間寝泊まりする。

「明日はH高と練習試合ね。こちらから伺うから」合宿最終日の前夜、監督が言った。食堂代わりの家庭科室。夕食前のミーティングだった。女子マネージャー3人と当番の1年生3人がカレーを仕込んでいる。いい匂いだな、腹減ったな。イモッチ投げるかな。

「イセヤ、4番だかんね」

「は?」

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H町の町営野球場は小高い山の上にある。H高は普段からここを練習に使っていた。球場は内野席も手書きのスコアボードも備えている。外野は芝生席だ。

内野席でユニフォームに着替えた。午前9時。雲がなかった。スプリンクラーが水飛沫を踊らせ、淡い虹を描く。H高の選手たちが外野でダッシュを繰り返していた。イモッチは走り方ですぐにわかる。

試合前のシートノックは緊張した。『キャプテン』で谷口君が青葉学院に行った時みたいだと思った。あのデブ、O中の万年スコアラーだっぺ?

C高は先攻で一塁側。H高の先発投手は1学年下のオーバースローだった。

2打席目だったはずだ。

初球、カーブが外角に外れた。「4番のバッティング見せてやれ!」と誰かが叫んだ。オーバースローが振りかぶる。

「どっしりとした構えで文句のつけようがない。もう少し腕の力を抜こう」

川上の声が聞こえる。

「軸脚に移動した体重は残したまま前足を踏み出す。そうだ。そのときに腕はまだ後方に引いたまま『ねじれ』を作れ。ユニフォームにシワができるはずだ」

直球。

「体重を徐々に前足に移しながらダウンスイング。インパクトの時、もう少し体重を前に。そう、それだ」

月に向かって。

インパクトの瞬間はほとんど感触がなかった。こんなことは初めてだ。打球が左中間へ上がったのはわかった。二塁打にしなきゃ、と思って懸命に走った。一塁を蹴ってから、野手の動きが止まっているのに気付く。全員が同じ方向を見ていた。「入(へ)ったど」とセカンドの選手に言われた。

イモッチがベンチ脇で、他の選手と中腰で声を出しているのは知っていた。三塁を回る時に顔を上げられなかった。嬉しさよりも恥ずかしさが先にあった。大杉ならスキップしてホームインしただろうか。

試合後に両チームでグラウンド整備をした。僕は本塁周りにトンボを掛けた。

イモッチが水を張ったバケツを2つ下げてやってきた。

「やっぱ『大杉』だった」彼は言った。言葉を交わすのは中学の卒業式以来だ。

「まぐれだよ」

「研究したんだっぺ?」

イモッチは満足そうに笑ってマウンドへ向かった。

大杉勝男はこの年の秋に38歳で引退した。

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「最後にわがままなお願いですが」大杉はマイクの前で話し始めた。翌1984年3月の引退試合のセレモニーだ。「あと1本に迫っていた両リーグの200本塁打。この1本をファンの皆さまの夢の中で打たせてやってくだされば、これにすぐる喜びはありません」

1992年4月30日、帰らぬ人となる。47歳だった。

大杉さん、あなたが打たせてくれた生涯1本きりの僕のスタンドインを、どうか受け取っていただけたら。

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