窓に飾る花のように
代表です。監修・演出を務めた深川市民で創る創作劇『フラワーズ・イン・ザ・ウインドウ』、大荒れの天気がやってくる直前(ぎりぎり)に無事に終演することができました。遠方から来てくれた知人も多く、終演後の雪と風にみな無事に帰れたか心配になりました。大変な中、劇場に足を運んでくれてありがとうございます。楽しんでいただけたなら嬉しいです。
今回は主催者からの要望であったり、僕自身のスケジュールの都合もあったり、自分がこうした「市民劇」にイメージするあるべき形を模索する中で、参加者皆さんに台本を書いてもらい、弦巻がまとめる手法を取りました。
起承転結や、明確な登場人物や筋書きが存在しない作風で臨んだので、参加者にも「これで芝居になるの…?」と戸惑いがありました。
皆さんのエピソードを取捨選択し、並べ、深川で暮らす人々の生活の悲喜交々、いえ、悲喜交々とも言えないような些細な交々をまとめていきました。一片の絨毯を織り込むような感覚で。
劇作がそうなってくるので、演出もそれに準じます。演出が準じるというのは、演技もそこに合わせてもらうことになります。自分が書いたエピソードを自分で演じる?それは演技?ここでも戸惑いがあったように感じます。
市民劇にはいろいろな形があっていいと思っています。
自分がこだわりたいのは「演劇」を面白がってもらえる芝居づくりのあり方です。自分が定義する「演劇」は話が長くなるのですが、分かりやすく一言で言えば「人間がそこにいる」ということです。「人間がそこにいる」を面白がってもらえる芝居。
物語構造の違いではありません。ウェルメイドも現代口語演劇も前衛もアングラもミュージカルもオペラもコントも関係ありません。
問題はみんな、どの演劇をやってる人も舞台上に人間が現れれば「人間がそこにいる」と思っているところです。そうかもしれないが、そうではないかもしれない。言い方を変えれば、ある種の「人間がそこにいる」は映像で確認する「人間がそこにいる」と変わらないのではないか?ということです。何故そうなってしまうのか?
「映像と同じ演技をしている=映像と変わらない」ではありません。
とても上手な俳優さんは映像と同じような演技をしていても「そこにいるわ〜」とあまりの説得力に唸ってしまいます。
20年以上前、映画の撮影現場でいしだあゆみさんの演技を4テイク見ました。同じ演技を4テイクです。どれも違いました。でも同じでした。そこに、そういう人間がいる、としか思えませんでした。怖いくらいでした。
でもそうは見えない演劇もあります。
どんなに面白くても、愉快でも、舞台上のエンターテイナーを見てる感覚になり「人間がそこにいる」味わいが希薄な舞台があります。何が違うのでしょう?
結論から言えば、舞台上で他者を認識しているか、他者によって変化しているか、他者の影響を受けているか、ということです。常に。舞台上にいる間。これはお客さんのことではなく、共演者のことです。
パフォーマンスの最中、観客への効果や説明に集中し共演者からの影響をシャットダウンしてしまっていると、それは一人で観客に向かってパフォーマンスしているのと同じになります。もちろんそれも生で見る魅力はゼロではありません。でもそこに集中してしまえばしてしまうほど、モニター越しのYouTuberや芸人さん、それこそ歴史上の名優の名演技名場面と比較される土俵になっていきます。
そうしたライバル(?)達が決してできないこと。
それは、舞台上の共演者と実際に共演することです。その姿を観客の前に提示する。それは舞台に立つ俳優にしかできないことです。その時、俳優は舞台にいます。「人間がそこにいる」わけです。
市民劇の形として、初めて舞台に立つ人に緊張をふり切り思い切って演技してもらうために、一人ずつ演技をするような、そう集中できるような形の物語に仕上げていくやり方があります。もちろんそれも大事です。ですが自分は、そこからこぼれ落ちるやり方で芝居づくりを行いたいと思っています。前者のような形だと、俳優は観客の前で面白いことができなくては、という思い込みに走りがちだからです。もちろん、面白いことができても良いです。困ることはないかもしれない。
でも自分は演劇の良さは面白いことができない人間も舞台に立てることだと思っています。なので、そうした作り方は市民劇でも、市民劇だからこそしないようにしています。
面白い人しか舞台に立てないのであれば、演劇をやる人間が増えることもないでしょう。市民劇が、その街に根付くことも、僕には可能性低く思えます。
だからこそ、の取り組みでした。
この営み、みんなで演劇を作る楽しさが持続するように。
ただ実際やるのはなかなか難しいです。
そうした演技を見たことがない方が殆どなので、どうしていいか分からないのがひとつ。
もう一つは(プロとやっていてもそうですが)、観客に向かってこうする、という演技に慣れていると「こうすればいい」というゴールがなくなるので手応えが残らない、なので不安になる、ということです。
『フラワーズ・イン・ザ・ウインドウ』の出演者も本番前夜、不安になったみたいです。申し訳ないです。演者に自信を持って舞台に向かわせるのが一流の演出家と聞いたことがあります。そういう意味で言えば自分は永遠に未熟者な気がします。
本番は、自分でもびっくりするくらい好評でした。
出来には前夜のゲネで自信がありましたが、どう受け止められるかは分かりません。
実際いわゆる一般的な「演劇」とはずいぶん形の違った作品となったこの舞台を「高校演劇か?」という批判もありました。高校生に謝ってもらいたいものです。いえ、よく考えたら狙いがちゃんと伝わった、ということかもしれません。
舞台上にちゃんと人の営みが見えました。60年以上前の風景と、つい昨年の出来事が繋がった瞬間がありました。
舞台監督から、終演してもずっと客席で泣いている若いお客さんがいたと報告がありました。サラリとした、まさに窓に花を飾るような細やかな作品ですが、何か届いたのなら嬉しいです。参加してくれたみんなも驚きながらも、自分達の物語が受け入れられたことを喜んでいるみたいでした。
皆さん、本当にありがとうございました。
これにて弦巻の2023年の本番は全てフィニッシュ。
最高の千秋楽でした。
早速来年1月の札幌演劇シーズン参加作品『ピース・ピース』と、
3月の演技講座成果発表公演「舞台に立つ」『ロミオとジュリエット』に向けて動き出しています。
こちらもお知らせ多数です。ご期待ください。
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