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25機目「劣化するオッサン社会の処方箋」

「劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?」(山口周 光文社新書)

なんでこういうタイトルなんですかね。

このタイトルにしたら、東京駅とか上野駅とか品川駅とかのターミナル駅の「BOOK EXPRESS」で「新幹線で1冊読めるな」的な名古屋か仙台出張のオッサンしか買えないじゃないか。

↑そういうペルソナ設定だと思う。(笑)

これは、むしろ20代が読むべき本です。特に就活とか転職活動とか始める前に読めるといいですね。

自分の親世代(40代後半~50代)との感覚の違いが手に取るようにわかりますよ。

僕が大学生に言ってきた「親世代である50代は勝ち組、負け組の価値観に染まっているから、わが子を負け組にしたくないという恐怖がすごい。だから大企業とか安定とかを重要視する」

これが明確に論理立てて説明されているので、
ひれ伏しました。

ホントは「じゃあどうすればいいのか?」について、もっとたくさんエッセンスがあるんですが、50代・60代を理解したいあなたには、この部分を引用します。

~~~ここから引用
現代の50代・60代の「オッサン」たちは、「大きなモノガタリ」の喪失以前に社会適応してしまった「最後の世代」だという点です。

戦後の復興と経済成長を支えたリーダーたちは、「大きなモノガタリ」つまり「いい学校を卒業して大企業に就職すれば、一生豊かで幸福に暮らせる」という昭和後期の幻想の形成とともにキャリアの会談を上り、「大きなモノガタリ」の終焉とともに、社会の表舞台から退いていった。

田中角栄、森田昭夫、本田宗一郎といった昭和期のリーダーのほとんどすべてがこのセルに含まれている。

「20代は人生を決定づける10年間だ」(メグ・ジェイ 臨床心理学者)

大学卒業後のこの時期は非常に重要な期間であり、その後のキャリアを形成するための知識やネットワークの構築、マインドセット(考え方の枠組み)の書き換えなど、言うならば「人生を生きるためのOS」を作る時期に当たる、というのがメグ・ジェイの主張の骨子です。

この貴重な20代を、バブル期に浮かれる世の中で、「会社のいうとおりにやっていれば金持ちになって別荘くらいは持てるさ」という気分の中で過ごしてしまったことは不幸たったとしか言いようがありません。

「大きなモノガタリ」の喪失前に、20代という「社会や人生に向き合う基本態度=人格のOSを擁立する重要な時期」を過ごしたのちに、社会からそれを反故にされた世代なのだということを考えれば、彼らが社会や会社に対して「約束が違う」という恨みを抱えていてたとしてもおかしくはありません。

「教養世代」(教養に価値を置く世代 50~70年代)と「実学世代」(実学の習得に価値を置く世代 90年代~)のはざまに「知的真空世代」があった。

「大きなモノガタリ」が喪失されたあと、社会で支配的になった「新しいモノガタリ」が「グローバル資本主義」でした。ごく一部の強者だけが勝ち残り、残りすべては敗者となって社会の底辺に沈んでいく、という過酷な「モノガタリ」です。

一般に教養エリート文化は、社会システムを維持・継続するための尖兵として生み出されるか、その対抗軸となるレジスタンスとして生み出されるかどちらかです。

1950年代から70年代までの「教養世代」は、「大きなモノガタリへの反抗」という側面が強かった。

ところが、この「大きなモノガタリ」は、70年代の後半にいたってどんどん肥大化し、そのモノガタリに適応した人たちに対して経済的な便益、それも「ウソだろ!」と言いたくなるようなレベルの便益をあたえてくれるようになります。

こうなってくると、「大きなモノガタリ」に対して批判的な構えをとっていた教養主義は、人をつなぎ止められなくなっていきます。

それはそうでしょう。やせ我慢をしてストイックに知的修養と思索を続けたところで、「大きなモノガタリ」に身も蓋もなくうまく乗っかってしまった人のほうがずっと大きな「お金」を享受できるのですから。この時期に教養主義が廃れていったことは当然といえば当然のことでした。

哲学や思想というのは、平たくいえば、「システムを批判的に思考する技術」です。システムがこれほどまでに強力にそこに依拠する人の便益と幸福を保証するものになってしまった以上、教養主義も哲学も思想ももはや死ぬしかない。

教養主義が現実的な効力を発揮する武器としての力を失ったからこそ、床の間に飾られる人畜無害な飾り刀のような玩弄物としてもて囃されたということでしょう。

「教養主義」に続く「知的真空世代」というのは、功利と便益を保証してくれるシステムに対して、無批判に自己を同化させることで、システムがもたらす便益を最大限に搾り取ろうとした人たちだと言えます。

結果的に、こういった行動がバブル景気を膨らませ、またそこに依拠した人々の知的戦闘力を大きく劣化させることになったわけですが、これは安易に批判できることではありません。

周りの人々が、一人また一人とシステムへ同化・適応することでどんどん裕福になっていく、幸福になっていくのを見れば、どんな人であってもこころ穏やかに「知的修養はどうした、金儲けよりも大事なことがあるだろう」などとは言っていられなかったはずです。

ここにきてシステムは「批判的考察の対象」からはずれ、我先にと一体化を目指すもの、自分もその一部となって便益を享受させてくれるものに変容したわけです。

これを整理すれば、「教養世代」から「知的真空世代」への移行は、「大きなモノガタリへの反抗」から「大きなモノガタリへの適応」への移行として整理できることになります。

の後、バブル景気の崩壊と今日まで連綿と続く日本企業の経営の迷走状態が始まり、「大きなモノガタリ」は唐突に終幕となり、「グローバル資本主義」という「新しいモノガタリ」が始まります。

~~~ここまで引用

こわい。こわすぎますね。
今の50代・60代が送ってきた20代・30代のときのバブル。

「システムに適応すること」が価値(平たく言えばお金)を生み出した時代。そして「教養」が死んだ。

著者の山口さんは、この本の前に、「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」(光文社新書)を書いているのですが、

美意識を鍛えるために「教養」が必要だよね。
経営には「アート」と「サイエンス」が両方ないとダメだよね。

もっと言えば、そこに「クラフト」も足して3つをしっかりかみ合わないとね。って言っている本なのですが。

それ以前に、なぜ「教養」が死んだのか?
みたいな問いに答えてくれる1冊でした。
まあ、教養は「実学世代」になっても死んだままなのですけどね。

この本読むと、いまの50代が生きた20代、つまりバブル時代って、「教養」という観点からすれば、幸福だったというよりはむしろ不幸だったのではないかなと。

就活・転職で、親やその他50代と、どうも話がかみ合わないなと思ったら、読んでみたい1冊です。

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