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42機目「社交する人間」

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「社交する人間~ホモ・ソシアビリス」(山崎正和 中公文庫)

「5年後の定量的目標と定性的目標は?」

10年ほど前、研修で問われて、定量的と定性的って何?って思うだけじゃなくて、「こういうの苦手だ~」と思ったのだけれど、これ、ビジネスの基本ですよね。

「目標を立てる」っていうのがそもそも苦手で、ぼく、ビジネス向いてないな、と思いました。

この本は、僕たちが当たり前だと思っている「目標に向かっていかなければならない」という思い込みに問いを投げかけます。

近代工業社会の成立は、仕事観、人生観そのものを根本から揺るがしたのだと。

~~~以下一部引用

「テクノロジー」とは、機械工業を富の生産の基本的なしかたと見なし、機械生産によって実現された効率主義を文明の理想と考える価値観の浸透であった。

いうまでもなく、この効率主義を可能にしたのは、人間の作業を機械で置き換えることであったが、その前提となるのは、作業の目的を作業の実行に先立って固定化することであった。

機械は人間の身体を作業から極力排除し、そのことによって身体が作業から受ける抵抗や反作業を感じられないものにする。

その結果、工業生産では作業の過程で方法を変更したり、目的の内容を微調整する必要は原則的に排除される。

いいかえれば作業の計画と実行、目的と過程を不可逆的に峻別して、後者が前者に影響することを極限まで防止するのが、機械生産の思想なのであった。

~~~ここまで引用

なるほど。

「産業革命」が「革命」したのは、工業生産そのものではなくて、人間の思想そのものだったのだなと。

「何か目的のために向かっていかなくてはいけない。」

ツルハシブックスをやっているとき、そんな脅迫を抱えて生きている大学生に何人も出会った。

彼らは行動している(ゆえに、少し変わった本屋にたどりついている)にも関わらず、常に不安を抱えていて、

いろいろ活動しているのに、「この先に何があるのか、わからない」「ゴールに向かっているのか、不安だ」という思いを抱えている。

実はその思想そのものが工業社会的なのだと。

「近代工業社会」という仮説(物語)に(教育を含め)世の中が呑み込まれてしまったから、そういう風に考えるのではないか。

それは近代工業社会を成り立たせるための仮説にすぎない。

すでに近代工業社会が終わりを告げつつある今、新たな仮説を必要としている。

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