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33機目「日本人は何を考えてきたのか」

「日本人は何を考えてきたのか~日本の思想1300年を読み直す」(斉藤孝 洋伝社)

32機目「日本人」という、うそと合わせて読みたい1冊。「禅」を研究した鈴木大拙の言葉から。今度金沢に行ったら、21世紀美術館ではなく、鈴木大拙館に行きたい。

「禅は科学、または科学の名によって行われる一切の事物とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。非体験的なるものは抽象的であり、個人的経験に対してはあまり関心を持たぬ。体験的なるものはまったく個人に属し、その体験を背景としなくては意義を持たぬ。科学は系統化(システマゼーション)を意味し、禅はまさにその反対である。言葉は科学と哲学には要るが、禅の場合には妨げとなる。なぜであるか。言葉は代表するものであって、実体そのものではない。実体こそ、禅においてもっとも高く評価されるものなのである。」(禅と日本文化)

禅においては「体験」が重要であり、「言葉」はむしろ妨げになる。

「日本人は、自分たちが最も激しい興奮の状態に置かれることがあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけるように教えられ、また、鍛錬されてきた」

自分を囚われから引き離すことが大切である、ということ。自己が囚われるということは、心が何かにとどまるということです。そこから、「心をとどめぬが肝要」と言います。

心がとどまってしまうと人は反応できなくなります。「あのとき、ああすればよかった」と思っているとまた失敗してしまいます。また先のことを思って、「こうすればほめられるだろう」と先回りすると、やはりこれも失敗してしまいます。

「石火の機」というのは、まさに火花が飛ぶ瞬間のように、いまその瞬間にきちんと反応する、ということですが、反応するためには、常に心を無にしていなければいけません。

そして極めつけはこの2つあとに出てくる、大森荘蔵の言葉。

「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思い込んでいる感情に他ならない。」(大森荘蔵セレクション・平凡社より)

感情というものは心の中にあるのではない、そもそも心の中というものはなくて、天地がすでに感情を持っていて、そこに自分は参加しているのだ、ということです。

大森は、「心の中」とか「意識」という言葉は危険なワードだと言います。なぜなら、この「意識」という言葉が世界と人間を隔ててしまっているからです。

この後、斉藤孝さんはこのように解説します。

~~~ここからさらに引用

ドイツの哲学者ヘルマン・シュミッツは、人の身体と感情はその人のいる空間と一体だと言います。

(中略)

このように考えていくと、「心の中」の感情とか、「私」みたいなものを前提とするよりも、場の雰囲気といったものを前提にしたほうが現実には即しているのではないかと思えてきます。

「私」というものがあって、その私が世界を認識するという構図自体がもしかしたら思い込みなのかもしれません。「私」を外して考えることで、芭蕉も生きてくるし、禅の伝統も生きてきます。

~~~ここまで引用

うわ~!って。日本の哲学スゲーって。うなっちゃいました。

そして、僕が「にいがたイナカレッジ」で言っていたコンセプト「場に溶ける」なんて、全然新しくないんだって。(笑)

「個性」とか「私」とか、そもそも幻想なんじゃないか。

もともと、「私」は世界に、というか場に溶けているんだ。「場」から生み出される「価値」を「個性」と呼ぶのだと。

だからさ、個人が個性を発揮する必要なんて必要なくて、「場」の構成員になればいい、というか、すでになっているんだって。

「やりたいこと」とか「夢」って「囚われ」のひとつだって思った。「自分」なんてない。

場に溶けていく。そこから始まっていく。
それがいつのまにか「個性」となる。

私のやりたいことは何か?
私のビジョンは何で、いまどこのプロセスにあるのか?

そんなことを考えるよりも、「場」に溶けていく。「場」に委ねてみる。そのほうが日本人的に楽なんじゃないですかね。楽に生きたい。ただそれだけなのかもしれないですが。

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