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34機目「中動態の世界」

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「中動態の世界」(國分功一郎 医学書院)

この本は、能動態でも受動態でもない、「中動態」をめぐる旅。考古学的言語学?人類学的言語学?とでも言うのだろうか。

國分さんの語り口が、まるで名探偵のように的を射ていて、推理小説を読むように、とてもワクワクしながら読める1冊。

まずこの本は「能動態」(する)と「受動態」(される)という現在の区分のほかに「中動態」があったとするところから始まる。

~~~以下、本書より引用(自分のメモ含む)

実は多くの言語が能動態と受動態という区別を知らない。

責任を負うためには人は能動的でなければならない。

責任を負わせてよいと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する。

完了は、時制であるにもかかわらず、態の区分に干渉する、ということである。

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題だった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。

アリストテレスは意志の実在を認識する必要がなかった。つまりギリシア人は、われわれが「行動の原動力」だと考えているものについての「言葉さえもっていない」のだ。

ギリシア世界には「意志」はなかった。能動態が中動態に対立している世界に「意志」はない。

おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、ギリシアに始まった西洋の哲学によってある種の仕方で規定されてきたこの思考は、中動態の抑圧のもとに成立している。

実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだという見解は、暗々裏に、未来を真正な時制とすることを否定している。

アレントによれば、未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去からの切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。始まりを司る能力の存在が認められる。

選択は過去の帰結としてあるが、意志は、過去を断ち切るものとして責任に付随している。

選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。

能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら私の行為として、すなわち、私に帰属させるものとして記述する。出来事を私有化すると言ってもよい。

「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ、「この行為は誰のものか」と問う。

出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行。

意志とは行動や技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置。

私は姿を現す。つまり、私は現れ、私の姿が現される。そのことについて現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それは言わば、尋問する言語である。

~~~ここまで引用

ギリシア世界には、「意志」は存在しないし、それに伴って「未来」も存在しない。過去からつづく流れの中で、状態(状況)としての今がある。

能動態‐受動態という言語体系は、「この行為は誰のものか?」と問うが、その問いはそんなに大切なのか?

大切だとしたら、それが大切とされるようになったのはいつからなのか?そんな問いが浮かぶ。

そこで。
「就活」への違和感に、このことを応用しようとすると、

小学生~大学生が向き合っている(向き合わざるを得ない、強制的に向き合わされている)次のふたつの問いが浮かんでくる。

「やりたいことは何か?」
「何になりたいのか?」
この二つはまさに「意志」と「未来」を問う質問なのではないか。

あたりまえだけど、「言葉」と「世界」は相互に作用している。
「言葉」が「世界」を規定し、「世界」が「言葉」を規定している。

だから、「やりたいことは何か?」と問われれば、「やりたいことは何だろう?」と考え、それに答えようとしてしまう。

でも、そもそも、「意志」や「未来」が存在しないとしたら。能動態と受動態の対立の世界に生きていなかったとしたら。

もしかしたら、そんなところに、これらふたつの問いの違和感の正体があるような、ないような気がする本。

その「もやもや」の正体は、「能動態」と「受動態」の対立、「行為者」や「意志」を確定させようとする言語というか言語の変遷にあるような気がしてならない。

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