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14機目「サヨナラ、学校化社会」

「サヨナラ、学校化社会」(上野千鶴子 太郎次郎社)
※現在はちくま文庫より文庫化されています。

「パラダイムシフト」っていうときの「旧パラダイム」とは何なのか?

そんな問いがあります。

ラストの「第7章 ポストモダンの生き方探し」には、大学生世代への熱いメッセージが込められています。これが15年たった今でもまったく色あせないものです。

「偏差値の呪縛から自分を解放し、自分が気持ちいいと思えることを自分で探りあてながら、将来のためではなく現在をせいいっぱい楽しく生きる。私からのメッセージはこれに尽きるでしょう。」

という一文から始まります。

~~~ここから引用
歴史はつねによい方向に進歩している。いまガマンすれば、明るい将来が開ける。現在は未来に備える時間としてのみ意味をもつ・・・。

どうしてこんな無邪気な神話が信じられたのか、いまとなっては不思議というしかありませんが、人びとは進歩と成長のイデオロギーに駆られて、ひたすら走り続けてきました。

フェミニズムや女性運動が、新しい社会運動として登場した意味は、じつに大きかったと思います。それまで運動とは、将来の革命の目的のために現在の苦難に耐えるものでした。しかし、フェミニズムはそんなヒロイズムを男性性のシンボルとして批判し、否定しました。闘いは日常のなかに、ありていに言えば、ベッドのなかにだってある。

日常にとってヒロイズムなど邪魔なだけです。日常とは、きのうのように今日も生きること。だから今日の解放がなくて明日の解放があるわけがない。フェミニズムはそう言ったのです。それは戦後社会運動の巨大なパラダイム転換でした。

近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。

そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。

「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。

これまでは、仕事による自己実現が価値あることとされてきた時代でした。しかし、自己実現の喜びを味わえるような仕事に、すべての人がめぐまれるわけではありません。ほとんどの仕事は、他人のために自分がしたくないことをやってあげて、そのかわりに報酬を受け取るものですから。

そうすると、仕事の優先度を下げて、自分の人生におけるシェアを減らし、
逆に自分にとって優先度の高い活動―たとえ金にはならなくても―を人生のメインにもってくるという選択肢もあるでしょう。

階層化とはべつな言葉で言うと、選択肢と文字の多様化であり、おたがいが一元尺度で競わないし、競う必要がなくなる社会になることです。

身分制社会とはそういうものです。士農工商の身分ごとにライフスタイルがあって、おたがいにその垣根を超えないように統制されていた。

それが崩れて、みんなが一元的に武士階級のまねをし始めたのが日本の近代化でした。

それを梅棹忠夫さんはサムライゼーションと呼びました。日本の近代化にもう一つべつの選択肢があったとしたら、それはなんだったか?

梅棹さんはそれをチョーニナイゼーションと名づけました。金と権力に価値を置かず、宵越しの金を持たない現在志向の町人的ライフスタイルです。

だれだって努力しさえすれば、金と権力が手にはいるという、国民総サムライゼーションの幻想に巻き込まれて馬車馬のように走らされてきた近代150年が、ようやく転換を迎えています。

いいことではありませんか。

ブルデューは、学校が優勝劣敗の競争敗者に自分の劣位を納得させるためのふるい分けの装置だと論じた際に、あわせてひじょうに皮肉なことを言っています。

「教育年限の延長というものは、二流のエリートに自分の二流性を納得させるまでにかかる期間の長さである。」と。

対抗組織というのはそれが敵対していたはずの支配的社会を、きづいたらそっくり模倣してしまっていることがあります。学校的価値を遠く離れたつもりのサティアンのなかで、もうひとつの学校をつくってしまった。そして社会を現実におびやかしてしまった彼らは、二流エリートの典型的な行動パターンだと言えるでしょう。

しかし、それはひとりオウムの若者たちだけではないはずです。自分で自分の評価ができない、他人の目でしか自己評価できない従属的な意識は、学校で叩きこまれてきた習い性のようなものです。

しかも、「だれかのために」「なにかのために」という大義名分がないと、自分を肯定したり評価したりすることができない。

他人の価値を内面化せず、自分で自分を受け入れることを「自尊感情」といいます。オウムの若者たちは、この自尊感情を奪われた若者たちでした。

ならば自尊感情はだれが植えつけてくれるのか。他人から尊重された経験のない人は自尊感情をもてない。―これはフェミニズムがずっと言ってきたことでした。

エリートたちが育った学校は、彼らの自尊感情を根こそぎにした場所でもありました。学校が自尊感情を奪うのは、劣位者だけとはかぎりません。学校は優位者に対しても、彼らの人生をなにかの目的のためのたんなる手段に変えることで、条件つきでない自尊感情を育てることを不可能にする場所なのです。

フリーターを非難したり、心配する大人たちは、正規雇用というパイが一生に渡って保証される、日本史上でも稀有な時代を生きた幸福な人びとです。

専門家になるというのは、分業構造の中で自分を手段的な部品に変えていく、近代社会に特有の生き方です。

「持ち寄り家計」
「マルチインカムのセルフエンプロイド」
「フリーターではなくフリーランス」

仕事を手段としてではなく、自分たちの楽しみや生き甲斐とし、仕事もやりほかのこともやる、そのために選んだワーカーズ・コレクティブという働き方なのですから、仕事を増やすことはありません。

「ゴー・バック・トゥ・ザ百姓ライフ」

「ひゃくせい」とは、もともと「くさぐさのかばね」を指し、多角経営の自営業者を意味しました。

現金収入・現物収入を自在に組み合わせ、季節のサイクルに合わせて生業を組み立てる。半農半漁の海辺の民などは、農業収入の少なさだけに目を奪われていては見誤るほどの、ゆたかで多彩な生活を送っています。究極のサステイナブル・ライフと言えるでしょう。

人に言われたことばかりやって、人に頭をなでてもらう生き方と、人に言われないことを勝手にやって、自分で「あーおもしろかった」と言える生き方と、どちらがいいかです。

ほんとうに好きかどうかはやってみないとわからないでしょう。やってみたら失敗もあります。失敗があればやり直せばいい。それだけのことです。そうやっているうちに、私はこれしかできない、と思うこともあるでしょう。
そのときは、その道一筋でやっていけばいい。

それでも、あれも好き、これも好き、といろいろなことに気が多かったら、
あれもこれもやったらいい。それで食えることも食えないこともあるでしょう。食うためには食うための仕事を必要なだけやればよい。そのためには人さまにお役にたつスキルの一つや二つは身につけておいてもよい。

大事なことは、いま、自分になにがキモチいいかという感覚を鈍らせないことです。それこそが「生きる力」なのですから。

~~~ここまで引用

いやあ、また引用しまくってしまった。ラストがアツイですね、また。渾身のメッセージ。

こう見ると、「パラダイムシフト」というときの「旧パラダイム」っていうのは、大量生産・大量消費とか経済至上主義、とかじゃなくて、「近代」という仮説そのものなんだと実感します。

上にも引用しましたが、

「近代とは、「いま」を大事にしてこなかった時代です。逆にそれを、現在志向とか刹那主義といっておとしめさえしてきた。そして、将来のためにいまを営々と刻苦勉強し、「がんばる」ことを子どもたちにも要求してきました。

「そんなことで将来どうするの」「大人になったらどうするの」と、つねに子どもは「将来」から脅迫され、いまを楽しむことを許されませんでした。現在を奪われた存在、それが近代の子どもたちだったのです。」

まさにここに生きづらさ、息苦しさの真実があるように思う。

夢はなんだ?
将来どうするの?
なんのためにやるの?

と聞かれ続ければ、現在は未来のための手段であると思ってしまいます。

いまを生きること。
目の前を生きること。

その積み重ねの向こう側に未来があると僕も思います。

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