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7機目「先生はえらい」

「先生はえらい」(内田樹 ちくまプリマー新書)
内田さんの著作の中でも大好きな本のひとつ。

「学ぶ」とは何か?そんな問いをくれる本です。

「働くこと」やそもそも「学ぶこと」が楽しくなく、つらいことであることの理由のひとつに、「師匠」と呼べる人(先輩)がいないことがあげられると思います。

退職した理由で「先輩を見ていて、自分の5年後、10年後だと思って不安になった」というのを何度か聞いたことがあります。目指すべき「ロールモデル」が社内にいない。それはつらいことなのだろうと思います。

しかし、本書によれば、「師匠」とは、そのような目指すべき立派な人でなくてもよい、ということになります。

そもそも師匠とは?
学びとは?
そんな根源的な問いをもらうのに最適な1冊です。

この本の冒頭では、「学び」と「恋愛」をうまく結び付けていて、中学生でもわかるようになっています。

~~~以下、本書より引用
師との出会いに偶然ということはありません

先生というのは、出会う以前であれば「偶然」と思えた出会いが、出会った後になったら「運命的必然」としか思えなくなるような人のことです。これが「先生」の定義です。

あなたが「えらい」と思った人、それがあなたの先生である。

先生を求めて長く苦しい旅をした人間だけに、先生と出会うチャンスは訪れます。

「尊敬できる先生」というのは「恋人」に似ています。恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、私にはこの人が素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。

自分の愛する人が世界最高に見えてしまうという「誤解」の自由と、審美的基準の多様性によって、わが人類はとりあえず今日まで命脈を保ってきたわけです。生物種というのは、多様性を失うと滅亡してしまうんですからね。

師弟関係というのは、基本的に美しい誤解に基づくものです。その点で、恋愛と同じなんです。

あなたが「あ、この人には、そういうところがあるんだ」と思い、「そういうところ」に気がついているのは私ひとりだという確信があるから、どきどきしちゃうわけですね。

「誰も気づいていないことに、私だけが気づいていた」という経験て、たぶん人間にとって、「私が私であること」のたしかな存在証明を獲得したような気になるからでしょうね。恋も科学の実験もそういう意味では、とても人間的な営みなんです。

先生も同じです。誰も知らないこの先生の素晴らしいところを、私だけは知っている、という「誤解」からしか師弟関係は始まりません。

プロの人なら言うことは決まっている。「技術に完成はない」と「完璧を逸する仕方において創造性はある」です。この二つが「学ぶ」ということの核心にある事実です。

ことばはむずかしいですけれど、これはじつは恋愛とまったく同じなんです。「恋愛に終わりはない」そして、「失敗する仕方において私たちは独創性を発揮する」。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。

「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。

それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。

「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。

~~~ここまで本書より引用

本当はもっともっとメモしたのですけど、きりがないので今日はこの部分から。

一番強調したいのは、ラストのところです。

私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために、私たちは学ぶのです。

「この先生のこのすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思い込みが弟子には絶対に必要です。

それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」であるのと同じです。

「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。だから私は生きなければならない。

この4つのフレーズから、「学ぶ」とは?から始まって、「生きる」とは?まで進んでいる。

弟子になること。
それは「生きる意味」を見つけるということ。
大げさに言えば、そういうことなのかもしれない。

しかもそれは恋愛に似ている。
つまり、思い込みなんだと。
この出発点。
これが大切なことなのかなあと思います。

僕たちが学ぶのは、有用な知識や技術を習得するためではなく、
自らがかけがえのない存在であるという事実を確認するため。

そうなんですよ。

学ぶということの目的は、「グローバル人材」になって、
「エンプロイアビリティ」(雇用され得る能力)を高め、
「コモディティ化」(交換可能になること)するためではないんですよ。

そのためには、師匠に出会うこと。師匠の教えを誤読すること。そして、行動すること。その繰り返しでしかない。

僕は山口・萩で吉田松陰先生に
「学びあいの場づくりこそが希望を生む」と学び
茨城・五浦で岡倉天心先生に、
「世界はひとつなんだ。まあお茶でも飲もうじゃないか」と学び
岩手・花巻で宮沢賢治先生に
「永久の未完成、これ完成である」と学んだ。

彼らを師匠だと思うのは思い込みや勘違いに過ぎない。(だって、お前が弟子だ、って言われてないから)それは、「運命の人」に出会って結婚するのと同じだ。

師匠の教えを誤読し、自分なりのプロジェクトを作っていくこと。そして師匠が出す問いに仮説検証を繰り返していくこと。それが、自分が自分であるために、行っているのだなあとあらためて思いました。

さて、あなたの師匠は誰ですか?

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