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32機目「日本人」といううそ

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「日本人」という、うそ~ 武士道精神は日本を復活させるか(山岸俊男 ちくま文庫)

この表紙でいいのか?と少し思いますが、なかなか面白い本です。道後温泉の近くの古本屋で購入。

「安心社会」と「信頼社会」というキーワードで知られる社会心理学者の山岸先生。僕はたぶん中公新書の本を買ってはいたけど、ちゃんと読んでなかった。ようやく読むべき時が来ました。先生、遅くなってすみません。

この本の前半は、道徳というか、倫理教育が機能しないこと、そして、「日本人らしさ」という幻想を徹底的に斬ります。

まずは、「タブラ・ラサの神話」といって、生まれたての赤ちゃんは、タブラ・ラサ(白板)のようなもので、そこに適切な教育をすれば「立派な人間」が作れるはずだという説。

しかし、この仮説は20世紀の中国や旧ソ連の社会主義国家を目指すという壮大な実験によって、覆されていると山岸さんは言います。

何の見返りがなくても、同胞に奉仕するような立派な人間はできずに、「同じ給料ならサボる」というメンタリティがはびこっていたので、経済力、国力が減退し、旧ソ連はついに無くなり、中国も方針転換をします。つまり、「人間性」を無視した教育は機能しないということです。

つづいて、「日本人らしさ」について。

「日本人は集団主義で欧米人は個人主義だ」というのはよく言われていることですが、これを心理学実験によって、次々と覆していきます。実は集団主義的社会に暮らしている日本人が他人を信頼していない個人主義者であり、「人を見たら泥棒と思え」というメンタリティの持ち主なのだという実験結果が出ます。

逆に西洋人は、相手をまず信頼し、その後の観察によって、信頼に足る人物かを測っていく、という方法を取るのだそうです。

そして、社会環境の差異から、それが起こっていると説明します。ここで「安心」と「信頼」というキーワードが出てきます。「集団主義社会とは、信頼を本質的に必要としない社会である」と説明します。

農村では家に鍵をかけなかったり、共同作業に皆で参加したりということが行われます。それはみんなが信頼し合っている、とか心がキレイだから、というわけではなく、そのように振る舞うほうがトクだから(悪いことをしたり、非協力的だったりすると制裁を受ける)という理由であると説明します。

ところが、都会では、見知らぬ人ばかりだから、悪事や非協力的なことに対しての制裁を加えるようなシステムがないので、目の前の人を自分で判断しなければなりません。

それは活動的には大きなコストがかかります。日本社会が高度経済成長を遂げたのは、経済社会に、集団主義が機能した、「安心社会」をつくりあげた
ためではないかと言います。

しかし。
その安心社会は今や終わりを告げたのだと。

経済のグローバル化など、「安心社会」から「信頼社会」への移行期を生きているのだと。

そして、いま、世の中で起きている問題が企業の不祥事やいじめ問題をなんとかするために、「道徳」を強化して、あるいは「武士道精神」などを持ち出して、いくというのは根本的に解決しないと山岸さんは言います。

「信頼社会」への移行をしていく上で、重要な示唆がヨーロッパ中世の地中海貿易の覇権を競い合っていたマグレブ商人とジェノア商人の逸話です。

貿易を行う上で人類を悩ませてきたのは「エージェント問題」、つまり代理人の問題でした。

代理人が自分の利益のためにちゃんと働いてくれるか利益を途中で吸い上げたり、相手側に味方をしていたりしないかというのをチェックする機能がなかったからです。

マグレブ商人は、徹底して身内との取引を選びました。そして、エージェントが裏切った場合、取引停止などの厳しい措置を取りました。

ジェノア商人は、身内、よそ者に関係なくその時々で必要なエージェントを立てました。当然、ジェノア商人のほうがコストもリスクも高くなります。トラブルが起こった時のために裁判所を整備せざるを得ませんでした。それでさらなるコストは上昇します。

結果、どうなったか。

マグレブ商人は地中海から姿を消し、ジェノア商人が覇権を握ったのです。

そして、まちから評判も「ジェノアは正直者を守る」というふうになっていったのです。
つまり、これが「信頼社会」の作り方です。
法制度がちゃんと機能していることで、
他人とビジネスしても裏切られない、あるいは裏切られても法が守ってくれる。

そういう「評判」がジェノア商人を押し上げていったのです。

そして、最終章。「武士道精神が日本のモラルを破壊する」と題された第10章で、「市場の倫理 統治の倫理」がでてきます。

まずはおさらいでこの地球上には「安心社会」と「信頼社会」という二種類の社会が存在し、集団主義社会が「安心社会」に個人主義社会が「信頼社会」に寄っていきます。

「安心社会」は、社会が安心を提供してくれます。それに反すると制裁が待っているからです。よそ者は裏切るかもしれないので歓迎されません。
「信頼社会」は、社会が提供する「安心」に頼るのではなく、自らの責任で、リスクを覚悟で他者と人間関係を結んでいこうとする人々の集まりです。

これはどちらがいいというわけでもなく、飢饉や戦争などが起これば、「安心社会」のメリットは大きくなります。

そこで、表題の「市場の倫理 統治の倫理」です。

アメリカ系カナダ人の学者、ジェイン・ジェイコブズが指摘したものです。

市場の倫理をわかりやすく言えば「商人道」、統治の倫理をわかりやすく言えば「武士道」だと山岸さんは言います。

「市場の倫理=商人道」は信頼社会において有効なモラル体系であって、「統治の倫理=武士道」は安心社会におけるモラルの体系であると言うことができるのです。

市場の倫理 15か条は「他人や外国人とも気やすく協力せよ」「正直たれ」「契約尊重」「勤勉なれ」「楽観せよ」など、他者との協力関係を結び、常に自己変革するために「競争せよ」「創意工夫の発揮」などが必要とされます。

一方、統治の倫理 15か条は、「規律遵守」「位階尊重」「忠実たれ」と集団内の秩序を保つことが大切であり、外部からの敵から集団を守るために、「勇敢であれ」「排他的であれ」という道徳律が必要で、裏切られないために「復讐せよ」という道徳律も必要になります。

そして、ジェイコブズの指摘は、この2つのモラルの混用が「救いがたい腐敗」をもたらすと言うのです。

その理由は、この二つのモラル体系が目指す世界はまったく対立するものであって、混ぜることは大いなる矛盾と混乱を招き、最終的には「何をやってもかまわない」という究極的な堕落を生み出すと言います。

商人たちの信頼社会では、正直であることは重要な道徳律ですが、江戸時代の武家社会では、主君(属している藩や幕府)を守ることに価値があり、「嘘も方便」とされるのです。

もし、商人の世界に「嘘も方便」のモラルが混入してきたらどのようなことが起きるでしょう。口先では「お客様が大事」「正直が一番」と言いながら、ホンネは自分たちの組織を守るためには客を騙しても許されるという考えたり儲けのためなら偽物を売ってもよい、というダブル・スタンダードが生まれてしまいます。

と、続いていきます。
これは、面白い。

おそらくは今、僕たちは「安心社会」から「信頼社会」への移行期を生きているのだろうと思います。

その時に、「武士道」と「商人道」を混同しないこと。
どちらかと言えば、商人道を生きていくこと。

これ、きっと大切なことなんだと思います。

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