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49機目「他者と働く」

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他者と働く~「わかりあえなさ」から始める組織論
(宇田川元一 ニュースピックス)

「対話」「対話」いってるけど、それは何なのか?
っていうのがなんとなく理解できる1冊。
これから組織人になろうと思っている大学生にはぜひ。

ロナルド・ハイフェッツによれば、世の中の課題は以下の2つに分類できるそうです。
1 技術的問題・・・既存の知識・方法で解決できる問題
2 適応課題・・・既存の方法で一方的に解決できない複雑で困難な問題(関係性の中で生じる問題)

私たちの社会がこじらせているのはほとんどが適応課題なのです。適応課題をいかに解くか。そのカギが「対話」です。

キーワードは「ナラティヴ」。本書によれば「ナラティヴ(narrative)とは物語、つまりその語りを生み出す解釈の枠組みのことを指します。

経営者には経営者のナラティヴ(判断の基準となるような解釈の枠組み)があり、部下には部下の「上司はこうあるべき」といったような「ナラティヴ」があります。

こちら側のナラティヴに立って相手を見ていると、相手が間違って見えることがあると思います。しかし、相手のナラティヴからすれば、こちらが間違って見えている、ということもありえるのです。

こちらのナラティヴとあちらのナラティヴに溝があることを見つけて、言わば「溝に橋を架けていくこと」が対話なのです。

~~~以下本文よりメモ

対話とは「新しい関係性を構築すること」

組織とはそもそも「関係性」だからです。

「私とそれ」の関係性(道具的な関係)と「私とあなた」の関係性(固有の関係)

「私とそれ」:立場や役割によって「道具」的にふるまうことを要求する関係。
「私とあなた」:相手の存在が代わりが利かないものであり、相手が私であったかもしれない、と思えるような関係。

それぞれの立場におけるナラティヴがある。

特に、専門家としての物語を生きていると、相手を自分の仕事を行う対象、道具として捉えやすくなります。

相手を捉える私の物語をどのように対話に向けていくか。

個人とは「個人と個人の環境」によって作られている。

人はその人の置かれた人間関係や環境にそもそも埋め込まれて作られた存在なのです。

対話は権限がなくても、自分のナラティブを一度脇に置いて、観察‐解釈‐介入を地道に回していくことによって可能です。

人が育つというのは、その人が携わる仕事において主人公になること。

実は主体性を発揮してほしいと思うことは、こちらのナラティブの中で都合よく能動的に動いてほしいと要求していることがほとんどです。

そして、今の職場のナラティブの中で活躍できる居場所を失ってしまっているので、「主体性がない」ように見えるに過ぎません。

~~~ここまでメモ

これ、上司と部下っていう話だけじゃなくて、先生と生徒っていう文脈でも同じですよね。

そして、さらに「観察」における注意点として、「権力の作用を自覚しないとよい観察はできない」と説明します。

たとえば、「社長とのランチミーティング」みたいなやつ。経営者は社員の言葉にしっかりと耳を傾けているように見えます。しかし、下の立場の人間が語ることは、「経営者としてのあなた」に対して語っているのだということです。

これはあるよなあと。

昨日、とあるイベントで対談して思ったこと。テレビ会議システムzoomは「他者に出会う」ツールなのではないかと。つまり、関係性を再構築することができるのではないかと。

ただつないで、何もお題がないと、話をしづらい状況になる。何か最近気になっているキーワードとか、昔のエピソードとか。相手の興味関心、もっと言えばルーツとか価値観がわかるようなお題。

よく知っていると思っている人でも、zoomというツールを通して、あらためて発見することができる。この本的に言えば、相手のナラティヴを理解しようとすること。そんなことが可能になるのではないかと思った。

僕がやりたい「コミュニケーション・デザイン」とはそういうことなのかもしれないなと。「本の処方箋」でも、相手の悩みの物語に溶けていく中で、浮かんでくる本がある。そのコミュニケーションの瞬間が面白いからやっているので、本を届けることが目的ではない。

他者と出会い、他者と働く。
いままさに、そんな地平に立っているのではないかと思う。

では、どうして私たちは対話に挑むのか?

第6章:対話を阻む5つの罠
この本はここで僕的にクライマックスを迎えました。

~~~ここから一部引用

そもそも私たちは何のために対話に挑むのでしょうか。
ハイフェッツの言う「適応課題」を乗り越えていくため、自分と組織、ひいては社会にとってなすべきことをなすためです。

対話に挑むことを別の言い方をするならば、それは組織の中で「誇り高く生きること」です。つまり、成し遂げられていない理想を失わずに生きること、もっと言うならば、常に自らの理想に対して現実が未完であることを受け入れる生き方を選択することです。

どうやったら誇れるか。

それは、私たちが何を守るために、何を大切にしていくために、対話に挑んでいるのかを問い直すことによって可能になると私は確信しています。私たちは何者なのでしょうか。何のためにがんばっているのでしょうか。そのことを見定めることによって、私たちは困難に常に挫かれ、改められることが必然である暫定的な理想を掲げ続け、歩むことができるはずです。

相手を観察し、対岸に橋を架けることは単なるその一過程に過ぎません。そのことは目的ではないのです。誇り高く生きることは、孤独であることを避けられません。しかし、その孤独ゆえに、他者に迎合するのではなく、孤独にこそ私たちの理想が刻まれていることを思い返すとよいでしょう。

~~~

いやあ。熱い。
急に熱い。
宇田川さん、好きだわ。(笑)

「組織の中で誇り高く生きろ」
そのためのツールがナラティヴアプローチであり、対話である、と。

そうなんですよね。
たったひとりでも、相手のナラティヴを知り、橋を架け続けること。

それがこの本からの最大のメッセージではないかと思います。

多くの悩める組織人と、これから組織人になっていく大学生へ、この本を届けたいと思います。

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