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43機目「発酵文化人類学」

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「発酵文化人類学」(小倉ヒラク 木楽舎)

昨日、麒麟山酒造の斉藤社長から頂いたキーワード「発酵」。阿賀町は「発酵のまち」だったということ。

「発酵」っていうのは学びにもアートにも通じるキーワードだなあとあらためて思い出して、この本を。

第5章「醸造芸術論~美と感性のコスモロジー」より。

~~~以下一部引用

写真技術が誕生したことによって、「客観的視覚表現」は写真家の領域となった。すると画家がやるべきことは「主観的認知」を表現することになる。これは言い換えれば「普遍性を捨てる」ということを意味する。

万人にとってのリアルではなく、自分という唯一無二の存在が「その時、その場所で」感じた一度限りの身体感覚を、同じく唯一無二の存在である他者の身体感覚に伝達するという「感性のインタラクション」への挑戦だ。

この瞬間に芸術は「静的な真理」を追い求めるものから「動的な感性」をインスパイアするものへとパラダイムシフトしたのであるよ。

つまり、ルノワールの絵を見るということは、ルノワールが自然をどう認知しているのかという「他人のセンスのありよう」を覗き込んでいるということになる。そして同時に「他人のありよう」と「自分のありよう」のギャップを埋める努力こそが「アートに触れる喜び」なんだね。

つまり。時代や文化を超えて、自分と違う誰かとつながること。自分と違うやり方で世界を見ている人とわかり合うということ。他ならぬ自分にとっての「自然」を見つけること。この瞬間に、自分の存在が肯定される。同時に外の世界とつながる。

ルノワールのいた19世紀のパリで浴びている木漏れ日は、同時に自分が友人たちと過ごした代々木公園の木漏れ日でもある。この時に、僕は時空を超えてルノワールと一緒にいる。そよ風を感じながら、2人でナイスなワインを飲んでいるのさ。

僕にとって、お酒を飲むのと絵画を見るのは同じような喜びだ。絵画では視覚に主眼が置かれるが、お酒では味覚や嗅覚に主眼が置かれる。しかし「感性のインタラクション」という意味では一緒なのだね。

優れたワインや日本酒を飲むということは、それを醸した醸造家と対話するといういうことだ。醸造家がどのように土や水を見つめ、どのように温度や風を感じ、どのように微生物たちと向き合い、どのようなセンスで味と香りをデザインしたのか。

実際には目の前にいないのに、醸造家はそこにいる。

~~~ここまで引用

この後、この本で一番膝を打った読者モデル=読モの三角関係について、話が進んでいく。

消費者⇔メーカーの直線関係の上に点を置いて、三角関係をつくることが必要だと小倉さんは言う。

それはファッション界における「読モ」のようなものだと。

作り手の事情も理解しつつ、受け手の代表としての文化の「たしなみかた」を提案するスターであること。

この読モを育てて行くこと。それによって三角形ができて、コミュニケーションが循環し始めるのだという。

読モがいることによって、消費者は「消費」をやめ「愛で」を始める。

うんうん。いいねいいね。
そして、この後が熱い。

▽▽▽ここから一部引用

作り手だけでなく、受け手もアーティストなんだってこと。ほんとはね。

その「愛でかた」もまたアート作品だ。絵画が画家と鑑賞者のインタラクティブアートであるように、酒は醸造家と飲み手のインタラクティブ・アートだ。

お気づきだろうか。

アートの本質とは、表現そのものではなく、表現をめぐる関係性なのだ。

普遍性なんて無い。
あるのは「その瞬間、その場所で」
他ならぬ自分が感じる「一瞬のさざなみ」だけだ。

△△△ここまで一部引用

うん。
そうなんだよね。
まさにそう。

「学び」もきっとそうだと思った。

「学び」の本質とは、学びそのものではなく、学びをめぐる関係性なのだ。
普遍性なんて無い。
あるのは「その瞬間、その場所で」
他ならぬ自分が感じる「一瞬のさざなみ」だけだ。

そして、学びという行為は、発酵の円環の中に入り、その円環と一体化ししていく中で生み出されていく何か、なのではないか。

そんな場を生んでいく、この町の、「たしなみかた」を魅せていく、「読モ」であり「発酵人」のひとりに僕もなりたい。

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