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40機目「遅いインターネット」

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「遅いインターネット」(宇野常寛 幻冬舎)

「平成」とはなんだったのか?
「グローバル経済社会」になるとどうなるのか?
どうして「民主主義」は危機に陥っているのか?

宇野さんはそうやって社会を斬るのか。
スルドいなあ、って。

東京オリンピックのその先が見えない。それは、平成という失敗したプロジェクトの先に未来がないのと一緒だ。

グローバルな経済とローカルな政治という関係が成立する前は、インターナショナルな政治にローカルな経済が従属していた。ところがグローバル経済が世界を覆うと、世の中はanywhereな人々(境界のない世界の住人≒どこでも生きていける人)とsomewhereな人々(境界のある世界の住人≒どこかに属して生きていく人)に分断された。

これが、ふたたび壁をつくろう、とするのだと。少し前にアメリカやイギリスで起こったことだ。

かつて民主主義がもたらしてくれた「世界に素手で触れている」という感覚。もはや1部の経済強者のみがその感覚を得ることができる。

「素手で触れている」という感覚。これは間違いなく勘違いなのだけど、多くの人のモチベーションはそうやって駆動されている。

企業や組織だってそうだ。企業や組織の未来に素手で触れている。つまり「経営に参画している」という感覚こそが大切なんだと思う。

今回、紹介したいのは、P98「仮想現実から拡張現実へ」のところ。

前段で、Googleなるものについての説明がある。

~~~ここから引用

かつてGoogleは、本来無秩序なインターネットを検索可能にし、疑似的な秩序をもたらした。その意味において、Google検索とは、本来は分散的なインターネットを「擬似的に」「中央集権化して」「見せる」装置だったとも言える。

今世紀初頭のある時期にGoogleによって成立していたネットサーフィンという行為は、いま過去のものになろうとしている。SEOの手法とインターネット広告産業の発展は、Googleの検索機能を大きく汚染した。

その行き着いた先として、Googleの検索結果の上位に表示されるのは広告収入目的のWikipediaを引き写したような事実上無内容なブログと、扇情的な見出しをつけてクリックを誘うフェイクニュースまじりのニュースサイトばかりになった。

そして気がつけば、僕たちはGoogleをWikipediaと食べログのインデックスにしか使っていない。

~~~ここまで引用

うわー。
バレましたか。笑

言葉を調べたいときとお店を知りたいときにしかGoogle使ってないってまさにそれ。それを「汚染した」と書く宇野さん鋭い。

まさにGoogleの思想が汚染されたのだ。

Google元副社長のジョン・ハンケは、グーグルマップ、ストリートビューなど地図サービスの責任者を経て、あの「ポケモンGO」をつくった社内ベンチャーの「ナイアンティック・ラボ」を設立する。

ポケモンGOの前に開発されたゲーム「Ingress」をプレイし、まちを歩き回ることで人々は自動的に自然や歴史に触れ、学習するとハンケは考えた。

宇野さんは次のように説明する。

~~~

言い換えればそれは、人間の地理と歴史への感度、世界を見る目を鍛える行為でもあるだろう。自分たちが生きているここ=「この世界」の深さを、多層性を把握しうる世界を見る目なくしては、「ここではない、どこか」=世界の果てまで旅しても何も見えてこない。―そんな確信が「Ingress」のゲームデザインの根底にある。

~~~

そして、今日のハイライト「仮想現実から拡張現実へ」。
情報技術が目指すものが変わってきたのだと。

~~~ここから引用

かつて、インターネットが代表する情報技術が人類に与えていた「夢」とは、「ここではない、どこか」を仮構することだった。この世界とは異なるもうひとつの世界を構築すること。それが前世紀の末にコンピューターが担った最大の気体であり、そして当時の若者たちが虚構に求めたものだった。

だからこそ僕たちはそこで本名ではなくハンドルを用い、もうひとつの自分を演出した。そしてそこには現実とは切り離されたもうひとつの世界を作り上げ、そこでもうひとつのルール、もうひとつの秩序、もうひとつの社会を築き上げようとした。まだインターネットがソーシャルネットワークに飲み込まれる前の話だ。

だが、現在は違う。僕たちは情報技術を「ここ」を、この場所を、この世界を豊かにするために、多重化するために用いている。多くの人たちが実社会の人間関係の効率化とメンテナンスのためにfacebookを使い、夜の会食の店を食べログで検索して予約し、移動中はApple musicでヒットチャートをチェックする。退屈な会議中は、海外出張中の友人にメッセンジャーで愚痴をこぼす。

21世紀の今日、僕たちは情報技術を「ここではない、どこか」つまり仮想現実を作り上げるためではなく「ここ」を豊かにするために、つまり拡張現実的に使用している。

(中略)

20世紀の最後の四半世紀のあいだ、虚構とは、革命の可能性を失った消費社会において、「ここではない、どこか」を仮構することが役割だった。これが仮想現実的な虚構だ。しかし、超国家的に拡大した市場を通じて世界を変える回路が常態化した今日において、外部を失ったグローバル化以降の世界において虚構が果たすべき役割は「ここ」を重層化し、世界変革のビジョンをこの現実において示すことなのだ。拡張現実(AR)的な虚構がいま、求められているのだ。

~~~ここまで引用

「虚構が果たすべき役割」って言葉いいですね。この先に未来があるなあ。このまちのフロンティアはきっと、そこにあるのだろうと。

「ここ」を重層化する。
「この町」を重層化する。

東京というローカルの重層化には限界があると思う。また、「この町」だけの重層化も難しいと思う。

「ここ」「この町」の暮らしの重層化のために、観光を強化し、外国人観光客を呼び、テレワーク拠点をつくり、IT企業と連携し、まちをつくっていくこと。それがこの町で暮らす意味になると思う。

十数年前、「課題先進地」というフロンティアを求め、海士町に、西粟倉村に、神山町へと志ある若者が移住した。

それはきっと、アメリカ西海岸でインターネット産業を興した若者たちの「世界に素手で触れている」という感覚に似たようなもの。

「未来に素手で触れている」というような感覚なのではないか。それがフロンティアなのではないか。

若者が地方を目指す。自らの暮らしをつくる。そこには小さいけど確実に「未来に素手で触れている」感覚があるし、その感覚を必要としている。

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