介護4になった母との関係(Part.1)

17年前ぐらいからだろうか、母は腰が悪く手術を三度ほどしている。その間に大きな交通事故もあり、要支援2から介護1になったり要支援に戻ったりを繰り返していた。この事故では脳出血もあり、せん妄状態が三ヶ月ほど続き、実は今より大変だったが、ずっと病院に入院していて、下半身に怪我がなかったため、1-2日に病院には通っていたが看護師の方が全てやってくれていたので、今よりは距離を保つことができた。

リハビリも長いことやって、退院時には自分で料理もできるようになった。むしろ料理ぐらいしかやることがなく、それが復帰のモチベーションになった。
そしてよくあることらしいが、事故時の記憶が一切ない。そして、半年病院に通い詰めた家族のことも一切覚えていない。この時に脳の柔軟さにびっくりしたことをよく覚えている。

しかし事故で入院したという事実が母の外出を妨げ、ほとんど外に出なくなった。車でどこかに連れて行ってあげなければ、自分で外を歩いても、100メートル先、長くとも300メートル先の整形外科に行く以外は、どこも出かけなくなってしまった。車で連れて行くと誘ってもほぼベッドの上でテレビを見ている生活になっていった。

そこでコロナだ。病院・週一の介護予防センター通い以外は不要不急の外出100パーセントの状況に加え、家の目の前で公共工事が始まり、家の前には吊り橋のような幅1メートルにも満たない道が通行を塞ぎ、毎日ドリルの地響きが響き、ますます家に引きこもることになった。
ベッドから落ちたり、夜のトイレで転んだりして、救急車で運ばれショートステイで二週間過ごした後、在宅でほぼ寝たきりである。毎日デイサービスに行き、毎朝ヘルパーが入ってくれている。週末は私と兄夫婦が交代で入り、病院・買い物諸々は契約者である私がやっている。

その間に父は公共工事のことで役所との話に私と参加することになったが、話についてこれない、次々とくる選択に眠れない日々が続き、年齢も重なり認知の症状が出てきた。仕事中も会社に電話が鳴り「銀行にいるがどうしたら良いかわからない」が何度か続いて、本人も自分がどうもおかしいと確信したせいか、私に色々なことを任せるようになった。その後病院にも割と素直にいってくれて、3ヶ月に一度の通院で薬をもらい、難しいことがなければ、普段は落ち着いていた。

会話についてこれない(要素が2つ以上ある1文はすでにだめだ)、字(新聞)が読めなくなり白内障の手術も受けた。母の介護関係者から薦めれて、介護認定検査をして、要介護1になり、趣味の囲碁と(これが一番だが)お風呂に入ってもらうために、デイサービスに週二回通い、今は慣れてきたようだ。

父の緩やかなぼんやりぶりに比べ、母は寝たきりである。体の弱い母をもっと労わるべきではないか、優しい言葉を送るべきじゃないか、とここまで書くと叱られるかもしれない。しかし、それまでの長い人生の中で、母の家族の中での暴君ぶりはすごいものだった。そこが非常に介護問題を複雑にさせる。これは毒親・毒母に悩まされてきた人はすぐにわかることであり、私も同じ境遇の人には心から寄り添ってしまう。次回から簡単には書けないが書くとキリがないので、短めにこれまでの経緯を書こうと思う。


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