記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。

特に好きな映画いくつか

『2001年宇宙の旅』(1968)

初めて「映画で衝撃を受ける」という経験をした作品。まだシネコンなんて存在しなかった時代、13歳くらいの頃に、祖父母の家の近所にあったさほど大きくない映画館で、暇だから観てみるか、のノリで出合った。同時にアーサー・C・クラークの原作にもハマり、果たしてSF好きな私がこのとき爆誕したのである(ところで「爆誕」てすごい表現ですよね。たいへんに優れている。思いついた人はすごいと思う)。以来、映画館で上映されるたびに繰り返し観ている。前回の鑑賞時にはボーマンが美形であることを初めて発見した。

『インターステラー』(2014)

SFの流れでこちら。こんなにベタでエンターテイメントなのにこんなに硬派なSFってあるでしょうか。ありそうで全然ない、なかなかに類を見ない作品だと思う。こちらも5回ほどは観たと思うが、『2001年』へのアンサー映画でもあったことに気づいたのは実につい最近のことであった。
私はロバート・ゼメキスの『コンタクト』(こっちのマシュー・マコノヒーもステキでしたね。ステキというか佇まいが破廉恥)で異星人がその姿を見せてくれてしまったときにたいへんガッカリしてしまったクチなのだが、本作の「彼ら」の正体には本当にありがとうという気持ちでいっぱいです。そうでなくてはいけない。こちらのほうがはるかに説得力があるではないか。
ちなみに最初に観たときはマーフの父恋しさ鬱陶しいぞ、と思ったが、何度も観ているうちにあの涙に涙するようになった。

『インセプション』(2010)

クリストファー・ノーランつながりで。ノーランの映画はほぼすべて観ているが、こちらも特に好きな作品のひとつ。夢と時間。これ以上にそそるテーマなんてあるでしょうかしら。昔、猫と一緒に暮らしていた頃、眠りから覚めた猫にいきなり威嚇されてぶたれたことがあったのだが、そのとき「夢の中で私にイヤなことをされたのだろうな」と思った。乱歩も「夜の夢こそまこと」と言っている。まあそういうことなのだ。夢の世界をあなどってはいけない。

『メッセージ』(2016)

私、ラストで号泣したんですよね。映画館でね。あまりにもむせび泣きすぎてエンドロールが終わっても立ち上がれなくて、通り過ぎるひとに心配されてる気がして恥ずかしかった。映画であそこまで号泣したのは小学生の頃に観た『ハチ公物語』以来でした。友人には「あんた子供がいるからね」と言われましたが、いやそうではない。私が泣いたのはそこではなくて、「時制のない言語を獲得することによって見える世界」を目の当たりにし、体感し、衝撃を受け、心が震えたから。この映画は「ばかうけ」以外は何の予備知識も入れずに観た。それもきっとよかった。最後の最後で受けた衝撃に、私の世界観はひょいとひっくり返ってしまった。

『河』(1997)

実は『河』でなくてもいい。『愛情萬歳』でも『Hole』でも『青春神話』でも『ふたつの時、ふたりの時間』でも。ツァイ・ミンリャンの作品で初めて観たのがこれだったので。
ツァイ・ミンリャンの映画の多くはパリで観た。当然字幕はフランス語だったわけだが、私のフランス語力でもまったく問題はなかった。ほぼほぼ誰も喋らないからである。
まあでもそんなことはどうでもいい。大事なのはツァイ・ミンリャンの作品は決して家族と観てはいけないということだ。『西瓜』あたりはうっかり間違えてしまうことはないだろうが、静かで穏やかな群像劇に見えるやつでも必ず1シーンは想像を超えたメガトン級のどきついやつをぶちこんでくるので本当に騙されてはいけない。ツァイ・ミンリャンの映画は必ずひとりで観ましょう。
とはいえまあでもそんなこともどうでもいい。
端的に言えば、当時20代だった私はツァイ・ミンリャンの作品に自分の世界を見た。私のことを描いていると思った。誰にも見せたことがない私の世界。それはストーリーというよりは、世界の色であり、匂いであり、重さであり、軽さのことである。言語化できない私のままならぬ世界がスクリーンに映し出されたのだ。胸がえぐられるような苦しさと天にも昇る高揚感を同時に感じるという奇妙な体験は、今までにツァイ・ミンリャンの作品以外では得たことがない。ツァイ・ミンリャンの作品はいまだに私の体の一部である。と感じるほどに凄まじい強度で常に私の内側に在る。

『秋刀魚の味』(1962)

これも実は『お早う』でも『お茶漬けの味』でも『浮草』でも『秋日和』でもいい。『秋刀魚の味』は最後の加東大介のセリフ「バカな野郎がいばらなくなっただけでもよかった」が好きなので。
こんなに美しい映画を撮れる映画監督って、どうなんでしょう、小津以外にいるんでしょうか。いや、正確には、「この類の」美しさは小津作品以外では観たことがない。まあ小津の作品なんですから当たり前なのかもしれないが、本当に唯一無二と言って間違いないでしょう。こんな映画は今後も誰にも撮れない。
小津作品もそのほとんどをパリで観た。図らずも日本語が恋しくなってしまった私の癒やしでもあり、またさまざまな人生を、人間の心持ちを、ぎゅっと凝縮して見せてくれた本物の教科書でもあった。つまり小津の映画は若かりし頃の私に豊かで穏やかで哀しげな何かを注ぎ込み、そしてそれらは確かに私の中に末永く根付いたのである。

『過去のない男』(2002)

これも実は『浮き草』でも『マッチ工場の少女』でもレニングラードカウボーイズでもいいのですが。カウリスマキの映画も誰も喋らないですね。喋らないどころか表情もほとんど変わらない。たまに微笑んでくれると「わあっ」となるレベル。なのにこの情感のたとえようもない深さはなんだろうか。じわじわと身体に染み込んでくる、さざ波みたいな何か。哀しい物語だったりするのに、観終えたときはだいたい少し元気になっている。『枯れ葉』は未見です。必ずや観に行かねばならない。

特に好きな映画はだいたいこのくらいである。「まあまあ好き」な映画もいくつかあるが、それはまたの機会に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?