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ルネッサンスとして観たパリ五輪


 パリ五輪が幕を閉じた。17日間の会期中、32競技329種目のプログラムに、200以上の国と地域から、男女ほぼ同数の総勢10,000人を超える選手が参加し、950万枚ものチケット販売数となった大会では、今回も多くのドラマが生まれ、そして未来への予兆も感じられた。

広く開かれたオリンピックという"チャレンジ"

 今大会のスローガンは”Games Wide Open(広く開かれた大会)”、それは、開会式直後に投稿したコラムにも記したとおり、自由と多様性を全開に幕を上げた。
 さらに会議中の最後の競技となる男女マラソン種目の間には、同じコースで市民マラソンが実施されて、127ヶ国・地域から約40,000人が参加したという。

パリオリンピック中に開催されたパリ市民マラソン

 まさに、広く開かれた大会という大きなチャレンジが実現した大会であり、見事に新たなオリンピック時代へのトランスフォーメーションの端緒をつくった。この未来潮流が、4年後のロス五輪に是非とも継承されていってほしい。

"熱狂"と"冷静"のトレードオフ

 オリンピックは国の威信を懸けて開催する大イベントだ。これまでの常識であれば、それを「冷静」に「計画」のとおりに進められることが大会運営の要諦とされてきたことに間違いないだろう。
 しかし、オリンピックは「祭典」である。祭りの醍醐味は、言うまでもなく「熱狂」と「興奮」、「共感」や「感動」だ。
 冷静さと熱狂、両者は単純に並べると相反する。同時に成立させることは困難に思われる。だから、運営は徹底した「コントロール」なの下に、リスクやノイズを排除してきた。そして、「ドラマチック」な興奮や感動は、繰り広げられる競技そのものに委ねてきた。
 競技と運営を分離することで、計画どおりの運営で熱狂を創出してきたのが、これまでのオリンピック大会の演出の要諦と言えるだろう。

コントロールとパッションを"アート"が包摂する

 振り返ると、今回の大会スローガン”Games Wide Open(広く開かれた大会)”は、その「分断」の運営と演出の常識を破壊して、相反するように見えていた両者を共に実現させる大きな実験のテーマだったのではないだろうか。
 もちろん、テロなどの人為的な混乱要因に対する入念な警備、気候条件など自然の変化要因への対応策など、表舞台とは別の黒子の活躍は、従来の大会以上の注力やイノベーションが潜んでいたに違いない。
 先日、開幕500日前から開会式の舞台裏に密着してきたドキュメンタリー番組「La Grande Seine」がNHKで放映されていた。

https://olympics.com/ja/paris-2024/videos/la-grande-seine-trailer?uxreference=playlist

 そこには、まさにクリエイターたちが破壊と創造を積み上げていく超絶的な軌跡が描かれていた。そして、驚いたのはマクロン大統領やパリのイダルゴ市長が創造的破壊を後押ししていた様子だった。また、その密着取材をスペインのクルーが担っていたオープンさにも驚いた。
 そうした数々のチャレンジを経て、広く開かれた今大会を成功させたことには、限りない未来価値があったと感じている。

未来への"ジャンプ"につながった何か?

 一方、やや考え過ぎかもしれないが、日本選手の活躍をテレビで観ながら感じたこともあった。それは、フェンシングの選手達の大活躍とメダル獲得の様子から始まった。
 その感じは、閉幕後に活躍した選手達を再度見渡してみたときに、偶然かもしれないし、偏った見方であるかもしれないが、さらにはっきりとしたものになった。それは、活躍した競技や選手の監督やコーチなどの指導者が、外国人であることだった。
 やり投げの北口選手もチェコのコーチについて拠点もチェコに置いて練習を積んできていた。初老ジャパンで笑いを誘った馬術の選手たちも一年の内の10ヶ月以上はイギリスで過ごしているらしい。惜敗の男子バレーボールもフランス人だ。

やり投げ金メダリスト北口榛花選手とコーチのセケラク氏(時事通信)

 なぜ、日本人の指導、日本での練習ではないのだろう?それが気になった。単に、勝利に向けてベストな環境を求め、指導者や活動拠点を選んだ結果ということなのだろうか?それとも、スポーツを巡る日本国内の文化に何か問題があるのだろうか?これらの事実と疑問が気に掛かって残った。プレーヤー、コーチ、ディレクター、これらの関係性には、何か未来への兆しが隠れていたのかもしれない。組織論としても、もう少し考えてみたい。

オリンピックで競ってきた価値の"モノサシ"

 前回、今回のコラムでは、パリオリンピックを題材に未来を考えてみた。とにかく、この大会は従来の大会の延長線上ではなく、非連続な一歩を新たに踏み出した大会だったと感じ取れたからだ。
 ここまで、経済成長を指標として社会発展を実現し続けてきた世界である。SINIC理論では、その指標の終着点が近づいている。次の人類の発展指標、豊かさの指標は何か?
 一方、オリンピックもメダル数を指標として国力を競ってきた。スポーツゲームの祭典であるからには勝敗はつきものだ。そして、様々な競技の記録や難度も開催を重ねる度に向上してきた。人類という制約条件を持った生きものは、その一元的な指標をいつまでも上げ続けていくのだろうか?いつの日か、人間は100mを8秒台で走りきるようになるのだろうか?競技は道具に備わるテクノロジーで記録更新を続けるのか?

近代オリンピックの"原点"にあったこと

 その時に、世界のスポーツの祭典の価値指標は何に変わっているのだろう。近代オリンピックの原点、フランス人のクーベルタン男爵の着想に立ち返ると、それは普仏戦争の敗戦で沈滞ムードが蔓延していた状況の打開のための教育改革にあった。

近代オリンピック生みの親 クーベルタン男爵(IOCウェブサイトより)

 そして、イギリスのパブリックスクールの視察で、自発的かつ紳士的にスポーツに取り組んでいる生徒の姿を目の当たりにした彼は、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信したという。
 さらに、自由の国アメリカの社会に、古代ギリシャの都市国家の自由を重ね観て、スポーツ教育の理想形として「古代オリンピックの近代における復活」を思い立ち近代オリンピックが始まったのだそうだ。これはまさに、スポーツのルネッサンスではないか。

パリ五輪という未来への"セカンド・ルネッサンス"

 奇しくも同じパリでの今回のオリンピックは、再びその近代オリンピックの意義を再考し、さらに次の未来へのオリンピックを見据えた、セカンド・ルネッサンスだったかのようだ。
 そうして見直すと、未来へのヒントとなる兆しが見つけられる。今回、したたかに仕組まれた数多の「隠されたコントロール」の努力の一つ一つは、社会論にもあてはめられる。まさに、自律システムへのトランジションとして見えてくる。
 自律したオリンピックは、まさにコンヴィヴィアルな場として実現していた。多様な人々がスポーツを通じて、自立と連携と創造を重ね合わせながら、共に愉しめる舞台を共にこしらえていた。
 そうだ、スポーツの世界は一足先に「自律社会」に遷移したのだ。そして、これからは、隠れたコントロールシステムが消えていき、自ずと創造される祭典に向かうであろう。スポーツやアートは、まさに、未来を先駆けるムーブメントなのだ。

"未来文化"をつくるスポーツ、アート

 国際オリンピック委員会のバッハ会長は、閉会のスピーチで「夢を与えてくれてありがとう」とアスリートに感謝した。そして、「国同士が戦争で分断されようとも、みなさんは平和の文化を作った。オリンピックは平和の文化を作り、世界を突き動かすことができる」と呼びかけた。

IOC バッハ会長の閉会式スピーチ

 やはり、未来は中心ではないところから生まれるようだ。これまでの中心、それは「経済」だった。そして未来は、「スポーツ」や「アート」から生まれてくるように感じられた。終戦から79年目を迎えた今日、持続すべき平和の文化創造の大切さを感じた。

ヒューマンルネッサンス研究所
エグゼクティブ・フェロー 中間 真一

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