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【俳優】常住富大という人間。

みなさん初めまして。

スニーカー大好き舞台俳優
常住富大です。

初めての投稿ということで、僕がどんな人間なのか自己紹介をしたいと思います。自己紹介といっても簡単にではなく、生い立ちから紹介させていただきます。長くなりますが最後まで読んでいただいて僕がどんな人間なのかを深く知っていただけたら幸いです。

簡単な自己紹介

1988年9月8日生まれ。東京都出身。日本体育大学を卒業後、2年間大手テーマパークダンサーとして活躍。その後2013年に文学座附属演劇研究所に入所し、2018年に座員となりました。
経歴は舞台:『サムシングロッテン』『PIPPIN』『天使にラブソングを〜シスターアクト〜』『プロデューサーズ』などがあり、TV:NHK『ガッテン!』ガッテンボーイズとして準レギュラーほか、映画:『マスカレードホテル』『空母いぶき』『ヲタクに恋は難しい』などに出演させていただきました。他にも出演させていただいていますので、もし気になる方がいましたら文学座公式ホームページのプロフィールを是非チェックしてみてください。

ここまでは超簡単に僕の自己紹介をさせていただきましたが、この簡単な自己紹介は舞台の公演パンフレットなどにも掲載される簡単なプロフィールです。

今回がnote初投稿ということもあり、常住富大という俳優がどんな人間なのか少しでも興味を持ってもらえるように幼い頃から現在に至るまでの生い立ちを綴っていきます。

それでは早速、生い立ちを話していきましょうか。

小学生時代

この写真は小学生時代ではなく、2歳の時の写真なんですが…
この写真を誰かに見せると「2歳なのに逞しい脚してるね!」とよく言われます…。笑
2歳児の僕は訳も分からずこのポーズをしていますが、兄2人の影響で覚えてしまったポーズらしいです…。にしても2歳児でこのポーズはヤバすぎますよね…。笑

僕は男3人兄弟の末っ子として常住家に誕生しました。
家族はスポーツ一家で、父がゴルフをしていたという影響もあり、兄2人はゴルフの英才教育を受け、現在もゴルフ関係で活動しています。
しかし僕はというと…
兄2人が父に厳しく指導されている姿を見て、ゴルフを全くやる気になりませんでした。
普段の父はとても優しいのですが、ゴルフのことになると鬼の形相で兄2人に指導している姿が大人になった今でも頭から離れません。俗に言うトラウマですね…。笑
だから今でも家族みんながゴルフの話をしている時、僕ひとりだけ全くついていけないんです。笑
最近少しずつではありますが、ゴルフの打ちっぱなしに行き、みんなと一緒に練習するようになりました。
ゴルフファミリーなだけあって教え方はみんな超一流。このチャンスを生かして早くみんなと楽しみながらゴルフをプレー出来るようになりたいものです。
と言っても本当に始めたばかりなので、まだまだ下手っぴなんですけどね…笑


僕のゴルフ練習風景です。もし気になる方がいましたら是非チェックしてみてください。

やはり男3人兄弟ということもあり、幼少期は兄弟喧嘩が凄まじかったです。これはどの家庭でも起こることだと思います。
兄弟喧嘩というよりは、一方的にやられるだけなんですけど…。笑
泣くまでやられることは当たり前で、兄のキックが目に入って目から血が出たこともあったりして…兄弟喧嘩の話は本当に尽きないくらい沢山あります。
でも大人になってからはみんな仲良くなり、今ではもちろん全てが笑い話になってます。笑

いつものように一方的にやられていた時、母に泣きながら

「母ちゃん助けてぇ〜」って助けを求めたんです。

そしたらなんと!!
母が兄を僕から引き剥がし、結構な勢いでパンチしたんです。
あぁやっぱり母ちゃんだけが俺の味方だな。とホッとしたんです。

そしたら次の瞬間!!
泣いてる僕の胸ぐらを母が掴み上げ、僕も結構な勢いでパンチされたんです…。笑
「えぇ〜なんで俺まで…」と思いましたが、喧嘩両成敗ってこういうことなんだな…と幼いながらに思った瞬間でもありましたね。笑
それと同時に、男3人を育てる母の逞しさを知りました。

ゴルフの話や兄弟、家族の話が続き少し脱線してしまいましたが、小学生の頃の話に戻りましょうか。笑

今回のnoteですが、話がかなり脱線してしまうこともあるかもしれません。

生い立ちなので話したいことや知られていないことなども綴っていきますが、どうぞ最後まで温かい目で読んでいただけたらなと思います。

僕は小学校の時から人前でふざけて人を笑わしたり、目立ったりすることが好きだった少年だったと思います。

この写真を見れば、どれが僕だか言うまでもないですね…。笑

バスケットボールとの出会い

小学校の頃はとにかく外で遊ぶことが大好きで、スポーツもたくさんやっていました。
幼い頃からとても負けず嫌いだったので、その当時は「どのスポーツにおいても絶対勝ちたい!俺が1番だ!」って本気で思ってました。笑
今となってみれば恥ずかしい限りですが…

剣道、水泳、タッチラグビー、バスケットボールなどなど…他にも色々とやっていましたが、中でも一番夢中になったのが、ご存知の通りバスケットボールでした。
毎週金曜日に剣道を習っていたのですが、剣道に行く前『スラムダンク』が当時アニメで放送されていて毎週必ず見てから剣道に行っていました。
スラムダンクの影響と兄がミニバスをやっていたということもあり、僕も小学校4年生の時にバスケットボールを始めたんです。
学校や児童館でも毎日バスケットボールをし、バスケットボール三昧の日々が始まりました。
他のスポーツ(剣道や水泳など)をしているときは「早く終わらないかな…」とか、気が付いたら違うこと考えている…っみたいなことがあったのですが、バスケットボールだけは全く飽きずに続けることができたんです。

本当に心から熱中し、好きなスポーツなんだと気が付いた瞬間でもありました。

小学校6年生の時にはミニバスでキャプテンを務めさせてもらいました。
チームで勝つために…チームのみんなで勝ちたい!自分1人では勝てない…そんなことを感じるようになったのもこの時期くらいからだったような気がします。

小学校のミニバス大会では優勝することができませんでしたが、チームは準優勝し、僕はその大会で優秀選手に選んでいただけました。
その時の僕は…『最優秀選手になりたかった…』
と大会が終わった後、悔しくて涙していた思い出があります。
そんな悔しい思いをしながら小学校を卒業し、中学校へと入学するのです。

中学生時代

中学生になった僕は迷わずバスケットボール部に入部。憧れていた部活生活が始まりました。
しかし僕の中学校はあまり強くなく、東京都大会に出場することは夢の話で、区大会で負けてしまうようなチームでした。
僕は中学校1年生ながらに『このチームで必ず勝ち進んで絶対東京都大会に出場したい!』と密かに意気込んでいました。

中学1年生の入学当時、僕の身長は146cmでクラスで背の順に並ぶときは前から2〜3番目くらいでした。現在の身長が178cmなので、当時から比べると本当に成長したなと我ながら思います。笑

兄弟の成長記録的にも僕だけ身長がズバ抜けて低かったため、家族は『この子はずっと背が低いままなのではないか…』と本気で心配していたそうです。
今となっては家族で1番大きいのが僕なんですけどね。笑

今でも同級生とたまに会ったりすると、『トミーが1番大きくなったよね。』と言われたりします。中学生の頃まであだ名が『トミー』でしたが、高校生からツネと呼ばれるようになりました。

中学校1年生の頃からスタメン(最初に出場するメンバー)の先輩方と一緒にプレーさせてもらい、毎日とても良い経験をさせていただきましたが、3年間のうちで東京都大会に出場することは一度もありませんでした…。
この試合に勝てば東京都大会出場という場面で負けてしまったりと、とても悔しい思い出が残っています。

中学校でもチームのキャプテンを務めさせていただき、とてもいい経験をさせてもらいました。入学当時146cmだった身長も、中学3年生になると168cmになっていて家族も安心していたようです。中学時代はより、チームのことを考えて練習したり、試合に臨んだりするようになっていました。

部活を引退し受験シーズンになると、当時の担任の先生から『バスケットボールに力を入れている学校がいくつかあるから、つねは練習に行ってみなさい。もう連絡もしてあるから。』と言っていただき、たくさんの高校へ練習に行かせていただけたんです。

高校の練習に参加すると、中学生とは全く違うスピードやフィジカルに圧倒されながらも、自分の今持っているスキルがどれだけ通用するのか挑戦することに楽しみを見出していたことを覚えています。

ある日いつものように高校の練習に参加してみると、明らかにいつもと違う雰囲気の高校で、海外コーチが直接指導してくれるという合同練習の日だったんです。

東京都大会に出場していた同い年もたくさんいて、そんな選手たちに囲まれながらも積極的に挑み、『自分は無名中学校出身だけど絶対に負けない!』と思って必死にプレーしました。

合同練習が終わり、帰りの支度をしていると高校の先生が突然話しかけてきたんです。

『○○中学校の常住くんだよね?〇〇先生からきみの話は聞いてるよ。すごく良いプレーをするね。うちの高校に来ないか?』

と声をかけてもらったんです。

今でもあの時のことは忘れられません。
全く無名の中学校でバスケットボールをプレーし、たまたま来た合同練習で強豪校の先生にうちの高校に来ないか?とお声がけいただけた時は本当に嬉しかったし、自分のスキルがこの学校で声をかけてもらえるレベルになったんだと自信を持てました。

合同練習に連絡してくださった担任の先生、声をかけてくださった高校の先生には本当に感謝です。

そして高校で絶対いい結果を出すんだと意気込んで、中学校を卒業したのです。


中学の卒業文集で当時描いてもらった僕の似顔絵と印象。

高校時代

高校に入学する前から早い段階で、すでに推薦入学が決まっていたので、部活生活も早々と始まっていました。
中学校の部活で後輩たちに混ざっての練習に加え、土日は高校の部活に参加するという日々が、入学まで続きました。
中学以上にバスケットボール漬けの毎日がスタートしたのです。

高校に入学し本格的に部活が始まると、バスケの練習というよりもランメニュー(走り込むトレーニング)やフットワーク(足腰を鍛えるトレーニング)、フィジカルトレーニング(筋力トレーニング)を中心に練習がはじまりました。

練習はとにかくハードだった記憶しか残っていません…笑
バスケ部なのにボールをあまり触らなかったイメージさえ残っています。笑

今となっては笑い話ですが、当時の自分は死に物狂いでした。笑
当時の笑えるエピソードなどは動画にしていますので、もし良かったら是非チェックしてみてください。

イヤというほど練習して、バスケ漬けの毎日を過ごしていましたが、唯一この高校に入る前に入学しようか悩んだことがありました…

それが!男子校だということ…。

この高校に入学すると決めた時、僕の青春はバスケットボールに捧げようと決意した瞬間でもありました…。笑

僕はスポーツクラスでバスケ漬けの毎日だったのですが、同級生もみんなそれぞれの部活漬けの毎日を過ごしていたので、一体感というか部活は違えどクラスで過ごす毎日がすごく楽しかった思い出があります。

当時サッカー部には面白い同級生がたくさんいて、毎日部活で大変ではありましたが、クラスで過ごす時間は本当にケラケラ笑える楽しい高校生活を過ごせていたと思います。

そんなこんなでバスケットボールを高校3年間みっちり続け、3年生の時にはキャプテンを務めさせていただきました。ミニバスや中学校の頃とは比べ物にならないくらい大変ではありましたが、この時の経験が今の自分を形作っていると言っても過言ではないと思える経験をさせていただきました。

本当に頼りないキャプテンではありましたが、チームのみんながぶぅぶぅ言いながらもついてきてくれた事に今でも感謝しています。

そして支部選抜という選抜対抗戦のようなものがあったのですが、僕もその支部選抜の練習に参加させてもらうという貴重な経験もさせていただきました。選抜には選ばれませんでしたが、チームから2人選抜に選ばれとても鼓舞された事を覚えています。

高校3年間の集大成として東京都ベスト16という形で最後を終えました。ベスト8まであと少しだったのですが、惜しくもその夢は叶わず…。ベスト8になれなかった悔しさと選抜になれなかった悔しさは今でも尾を引いています…笑

ここまでバスケットボールについて長々と綴っていきましたが、ハードな高校生活のなかでも僕が今仕事にしている、俳優業に行き着いた瞬間(きっかけ)があったんです。
バスケットボールの世界から芸能の世界へ入るきっかけ。そのきっかけについての動画をまとめていますので、もしよろしければ是非チェックしてみてください。



ダンスとの出会い

高校3年間熱中していた部活も引退し、受験モードになっていた時に息抜きとして興味を持ち始めたのがダンスでした。

動画でも話していますが、劇団四季さんの『マンマ・ミーア!』を高校の文化芸術鑑賞で観たことがきっかけで、芸能の世界やダンスに興味を持ったんです。

高校3年生の時に中でも興味を持ったのがポップダンスでした。

大学受験が終わり、卒業までの時間は狂ったようにダンスに熱中していたのを覚えています。笑
幼なじみの親友4人と毎日のように集まってはダンスの練習をしたり、映画を観たりという生活をしてました。
幼なじみとは今でも連絡をとっていて、僕が俳優業をしていることを応援してくれているので本当に感謝しています。

当時『スーパーチャンプル』という深夜番組が放送されていて、いろんなジャンルのダンサーが踊りを披露する番組だったのですが、僕は『ひとりでできるもん』『クースコ』『フォーマーアクション』などのポップダンスを踊っているダンサーに目が釘付けでした。
番組を録画してはビデオが擦り切れるくらい毎日見て研究し、自分で練習していたことを覚えています。

ポップダンスは筋肉を弾いたりする踊りです。
イメージがない方はこちらの動画を見ていただけたらと思います。全然出来ていませんが良かったらチェックしてみてください。

大学入学までの期間でバスケットボールからダンスへとシフトチェンジしていくのです。

大学は一般入試で日本体育大学を受験。当時勉強を全くしてこなかった人間が一から勉強を始め、大学に合格できたことを自分でもびっくりしました。部活を引退した後もスポーツクラスだったので少しだけ部活に参加し、帰ってから勉強をするという日々を送っていましたが、家族も勉強をしている姿を見て驚きを隠せなかったようです。
あの時『俺は絶対日体大に入るんだ!』と強い意志で挑んで良かったなと思っています。

そして大学へと入学するのです。

大学時代

日本体育大学に入学すると必ずやらなくてはいけないオリエンテーションがあります。

それが有名なエッサッサです。

ご存知の方も多いと思いますが、エッサッサは日本体育大学の名物と言っても過言ではないくらいの行事?パフォーマンスなんです。エッサパンという白いトランクスのようなパンツと、ハチマキのみを身につけて行うパフォーマンスで、入学生は必ず乗り越えなくてはいけない行事なんです。

日本体育大学学校案内エッサッサを引用しました。              日本体育大学の独特の応援スタイルとなった『エッサッサ』は大正10年代の本学の前身である体操学校でうねったスポーツの波が誘因となって誕生しました。
その当時の体操学校は、日本体育会が大相撲と密接な関係を結んできたこともあってか、全校を挙げて相撲の応援に国技館に駆けつけていました。その当時、東京農大には『大根踊り』が、商船大学には『錨をあげて』が独自の応援スタイルとして名を馳せていました。体操学校でも、そのような独特の応援スタイルを考案しようという気運が高まってきました。これに応えたのが、当時体操学校の在学生であった、平井一氏でした。氏が回想するところによると、モチーフとされたのは当時アメリカから持ち込まれていた『ピストン・ロッジ・アームモーション走法』でした。この腕の振りに静と動、強と弱、速と遅の要素を取り入れ、掛け声を『エッサッサ』に。
このように日体独自の応援スタイルは平井氏がいた学生寮で誕生しましたが、現在に至るまで連綿と継承してこれたのも、学生寮が責任を持って先輩から後輩へと伝えつづけてきたからにほかなりません。
時代は移り、エッサッサも時の寮生たちによって少しずつアレンジされてきました。そして『離合集散』の美を表現しながらエッサッサをより勇壮なものへと仕上げていきました。月明かりに獅子が月に向かって咆哮する様子(さま)を表現したもの、との説明が加えられるに及んで、この静の強さを強調したスタイルは完成したといえます。『演じて見せるエッサッサの世界』は、われわれ日体人の精神的な土壌といえるのかもしれません。

もしエッサッサを知らない方がいましたら、YouTubeなどで調べていただけたらすぐに出てきます。

エッサッサの話や日本体育大学で起きた面白い話などは動画にしていますので、気になる方がいましたら是非チェックしてみてください。

動画の中でも話していますが、エッサッサはめちゃくちゃきついんです…。
オリエンテーション最終日に発表をするのですが、終わった後の達成感が半端じゃありませんでした。笑

ちなみに!
入学してすぐオリエンテーションでスポーツテストがあるのですが、学科別で1位を取リました。
そして実は僕、中高の時も体育優良生徒に選ばれ、東京都知事から表彰状とメダルをいただきました。
体を動かすことや体育は小さい頃から大好きな科目だっただけにすごく嬉しかったです。

自慢してすみません…。

話は戻りまして…

オリエンテーションを終えてやってくるのが、部活の勧誘です。
大学に入学した時『バスケ部に入ってバスケを続けようかな…』と思っていたのですが、当時うわさで身長が180cm以下は1軍に入れないから4年間ベンチで終わる。という噂を耳にしたんです。

『4年間バスケをプレーせずにベンチで終わるなんて絶対にイヤだ!』と思った僕は、バスケ部に入部する事をやめ、ほかの部活を見学しに行くことに決めたんです。

今考えてみれば、バスケ部へ見学も行かず何を判断しているんだとも思いますが…笑

しかしほかの部活を体験した事によって僕の人生は大きく変わりました。その時の話をしている動画がありますので、もし良かったら是非チェックしてみてください。

大学の部活のほとんどをこの動画で話していますが、僕は気付いたらダンス部に入部してたんです。入部したての頃ぼくは、ストリートダンスにしか興味がなく『こんなダンスをしたいんじゃないのに…俺は何をやっているんだろう…』と毎日考えていましたが、ある大会との出会いが僕のやる気スイッチをオンにしたんです。
それが…
『全日本高校・大学ダンスフェスティバル神戸』でした。

『全日本高校・大学ダンスフェスティバル神戸』との出会い

毎年8月になると創作ダンスの甲子園といわれている全国大会が神戸で開催されるんです。
全国のダンス部の学生たちは、この大会で入賞することを目標に日々部活に励んでいると言っても過言ではないほど大きな大会です。
コンクール部門で入賞した学校は、NHKで受賞作品の特集を放送してもらえるので、学生たちはその名誉を賭け、死に物狂いで練習に励みます。

大学1年生の時、何も知らないまま神戸大会に参加し、参加部門で自分の発表を終えるとコンクール部門の受賞作品を観る事になったんです。

それまで創作ダンスというものに全く興味のなかった僕は、時間を潰す感覚でコンクール受賞作品を見るつもりでいました。
しかし受賞作品を見た瞬間、身体中を稲妻が突き抜けたんです。

『なんだこの作品!すごすぎるし胸が熱くなる!この大会で俺は必ず受賞したい!受賞作品としてこの舞台に立ちたい!』
と一瞬にして思ったんです。

大会が終わってからもその熱が収まることなく、日々意識が高まっていき、ダンスをもっと上手くならなきゃと思うようになったんです。
それからというもの基本練習(バーレッスン的なもの)に力を入れるようになり、いろいろな作品や上手な人の踊りを毎日のように見て研究しました。

日々練習に励みましたが、大学3年生まで全く受賞することが出来ず、悔しい思いをしました。
『自分らの代で必ず受賞し、絶対あの舞台にみんなで立つんだ!』と3年間強く思い続けていたんです。

4年生になり僕らの代になると、それまでこの大会を研究してきたことや作品の傾向と対策を練りに練った話をみんなで毎日話し、『今年は絶対に賞を取りに行くぞ!』と意気込んでいました。
僕は同級生や後輩たちに『日本女子体育連盟理事長賞は…日本体育大学、限界は空』と受賞作品発表の時のイメージを毎日言ってたんです。笑

あぁでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し、ついに大会当日。
ここまで費やしてきた4年間の集大成を発表する時が来ました。
コンクール部門予選を通過し、本戦も全員一丸となって悔いの残らないほどの最高のパフォーマンスが出来たんです。

結果発表のとき。

次々と受賞校が発表されていき、会場中がざわめくなか、次が日本女子体育連盟理事長賞の番になったんです。
みんなで手を繋ぎながら発表を待ちました。

『日本女子体育連盟理事長賞は…日本体育大学、限界は空』

僕たちがイメージし続けたまさにその通りの言い方で、受賞発表を受けたんです!
みんなで名前を呼ばれた瞬間喜び泣き叫んだのを覚えています。

あの時のことは一生忘れられない経験になりました。トロフィーを受け取る際、審査員の方から『日本体育大学の受賞、ずっと待ってましたよ。本当におめでとう!』と言ってトロフィーを渡してもらえたんです。本当に嬉しかったです。

受賞発表翌日に夢だった受賞作品発表で『限界は空』を踊ることが出来て感無量でした。

『限界は空』という作品をYouTubeに載せていますのでよろしければ見てください。

熱い夏の大会が終わるとすぐ、秋に開催される全国大会…

『アーティスティックムーブメントイントヤマ』

の作品づくりに入りました。
この大会は出場人数が5人までと決まっているので、部活の中でも大会に出たい人が出場することになっていました。
日体大からは2チーム出場することになり、作品を作ることになったのです。

僕のチームは人とのつながりをテーマに作った作品で、toeというバンドの『向こう岸が視る夢』という曲を使って創作することにしたんです。
作品のタイトルも『向こう岸が視る夢』というタイトルにし、夏休みを削って創作しました。

猛練習をし、大会当日。
この大会で受賞したら、1年のうちに大きな大会で2回も受賞し、記録にも残るということもあってみんな死ぬ気で挑みました。

その結果!
なんと特別賞を受賞することができたんです!
その時の写真は上の写真の上半分。

受賞式で『特別賞は日本体育大学Aチーム 向こう岸が視る夢…』と名前を呼ばれたときはみんなで歓喜しました。
Bチームは惜しくも受賞することができなかったのですが、みんなで頑張ってきた分喜びは倍増でした。

この大会が終わったあと、受賞した作品の中でまさかの5作品に選ばれ、違う会場で再度発表することになったんです。
作品も7分ほどに再創作し、別日の発表も大成功しました。
その時の作品はYouTubeで見られますので良かったらぜひ見てください。

大学3年生まで1回も受賞することができなかったので、本当に嬉しかったし最高の経験ができました。
今でもあの時のことを思い出すと胸が熱くなります。

大会も終わりダンスを4年間みっちりやったということで、次に立てた目標が…

『人の前に立つことに慣れよう』でした。


そこで次に目指すことになったのが、夢の国のダンサーだったんです。
大学の先輩も数名すでに踊っている方がいらっしゃり『自分もあの舞台で踊ろう!人の前に立って修行しよう!』と思うようになったんです。当時ダンス部の助手をしてくださっていた先生も夢の国ダンサーの経験があった方だったので、お願いして教えてもらえることになったんです。
と言っても練習したのは全部で5〜6回程度…。笑
でも数少ない練習の中で、すごく教え方が上手な先生だったこともあり、無駄に自信がありました。笑

オーディション当日。ものすごい人数と一緒にダンスを踊る中で、なぜか僕は緊張というよりも思いっきり楽しんで挑むことができたんです。

オーディションを無事に終え、『これでダメだったらしょうがない。』と思えるくらい自分の力を出し切ることができました。

その結果…夢の国ダンサー合格!

2回ほどの実技オーディションと面接をして合格することができました。一緒に受けた大学の親友は合格できなかったので、それだけが心残りでしたが…

テーマパーク振りを教えてくださった当時の助手の先生のおかげで合格することができました。今でも僕の舞台を観に来てくださったり、大学の卒業生でイベントに出る時のチームで一緒に踊ったり、ご飯に行ったりと仲良くしてくださって本当に感謝しています。

夢の国へと進むことが決まり、部活漬けだった大学生活を終えて、ついに目標だった踊りの世界へと入っていくのです。

夢の国ダンサー時代

プロのダンサーとして初めて人の前で踊るということに胸をワクワクさせながら、毎回行われるリハーサルに挑みました。何もかもが新鮮で毎日楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。

『あと数日でデビューだ!』と思っていた時に突然起きたのが…

3.11 東日本大震災。

僕は当時電車の中にいて、ものすごくびっくりした思い出があります。あの時のことを思うといたたまれません。世間がこんなにも大変な思いをしている中で、果たして自分はダンサーとしてデビューするのかと思っていました。そんな場合じゃないのではと…

日本中がようやく落ち着いてきた時、僕のデビューが決まったんです。

僕は自分がダンサーとしてデビューできる喜び以上に

『楽しんでもらいたい!』『元気になってもらいたい!』という気持ちが強かったんです。

その時から今でも自分が大事にしている、

『ひとりでも多くの人に楽しんでもらいたい。笑ってもらいたい。』

そんなことができるエンターテイナーになりたいと思うようになりました。

そしてデビューの日。

初めてダンサーとしてパレードに出たとき、デビューの喜びはもちろんですが、ゲストが満面の笑みで心の底から楽しんでいる姿を目の前にして胸が熱くなったことを今でも覚えています。

そこから夢の国ダンサーとして活動するのです。

実は夢の国でダンサーをする前から、2年間だけダンサーとして活動しようと決めてこの世界に入ったんです。デビューした時から僕は2年間だけと決めていたので、いろんなロケーションで踊って悔いのないダンサー生活にしたいと考えていました。

そんなダンサー1年目はパレードとハロウィンのイベントに出演させていただき、とても充実した1年を過ごすことができました。

そして2年目に入る前のオーディション数日前、振付師の方と同期メンバーでご飯に行く事になったんです。お酒もすすみ振付師の方から

『みんなは来年度、どこのロケーションで踊りたいの?』と聞かれたんです。

同期のみんなは口を揃えて『もう少しパレードで経験を積んでから、いろんなロケーションにチャレンジしてみたいので、今はまだパレードで踊りたいです。』

と言っていました。でも僕は初めから2年間と決めていたので、

『僕はステージに立ちたいです!大学の先輩もいるので一緒に踊りたいです!』と言いました。そう言った時、同期達はみんな『???』となってました。笑

でもあの時、自分が本気でチャレンジしたいことを正直に伝えてよかったなと思いました。そして2年目のオーディションでも自分の力を出し切って悔いのない踊りができたんです。

結果はステージに決まりました。

自分がステージで踊りたいという熱意を前面に出して行動し、オーディションでの踊りに気持ちを込められてよかったし、評価してくださった振付師の方々には本当に感謝しています。

そしてダンサー2年目の最後の年。

僕はステージダンサーとして活動しました。

ダンサー2年目の年は目標であった役者になるため、ショー間休憩を使ってほぼ毎日勉強をしていました。役者になる他に日体大の大学院に進学するということも考えていたので大学院の受験勉強も同時にしていました。

文学座は入所試験に筆記テストがあることをみなさんはご存知でしたか?

ダンサーと勉強を両立しながら毎日を過ごし、受験当日。

大学院の試験が先にあり、無事終えることができました。その数日後に文学座の入所試験があり、ここで僕の動画でもよく出てくるお馴染みの久保茶万太郎と出会ったんです。文学座の試験は筆記試験を通過したら、実技試験が2回ほどあります。2回目の実技試験に歌唱試験があるのですが、僕は当時からよく聞いていたレミゼラブルの『STARS』を歌いました。本当に大好きな曲で、当時暇さえあれば口ずさんでいたほどです。うまいか下手かは別として…笑

そして合格発表…大学院も文学座も両方合格することができたんです。

ダンサーをしながら本気で勉強してきてよかったなと思った瞬間でもありました。

どちらに進もうかと考えた時、父から

『ここまでやってきたんだから、人の前に立つ仕事を続けたほうがいい。ただ、やるからには本気で上を目指しなさい!』

と言われて、僕は目標だった役者の道に進む決心がついたんです。

そして2年間のダンサー生活を終え、役者の世界へと足を踏み入れました。

夢の国で起きたおもしろエピソードは動画で話していますので、もしよろしければ是非チェックしてみてください。

そして文学座へ

文学座の入所試験の時に話した久保茶万太郎もこの時、同期として一緒に入所することができたんです。久保茶万太郎の話ややりとりなどは僕の動画に度々出てきますので、もしよろしければチェックしてみてください。

僕は文学座の本科夜間部として入所しました。

文学座に入るとまずは1年間、本科生として芝居漬けの毎日を過ごします。右も左もわからない状態で役者の世界に入ったので、大変なこともありましたが毎日とても刺激的でした。

芝居の講義のほかに年4回の発表もあるのですが、初めて舞台の上で芝居をしたのが…

『わが町』でした。

文学座に入ったら必ずやる芝居で、先輩や卒業生と話す時に『わが町は〇〇役だったんだよ!』などと盛り上がる話の種でもあるんです。ちなみに僕が初めていただいた役が警察官の役で、ワレン巡査でした。今でも忘れられません。

そのほかにも必ずやる芝居に『女の一生』という作品があり、これもどの役を演じたのかで盛り上がったりします。笑

女の一生では本科生の人数も多いということもあり、幕によって配役が変わります。僕は最後の幕の6幕栄二という役を演じさせていただきました。この時もかなり思い出深い作品になりました。

『女の一生』発表前の写真がこちら!

この舞台で初めて役作りとして減量にもチャレンジし、7kgほど落とした思い出があります。笑

そして卒業発表は『花火舞い散る』という作品で、1年間の集大成なのでみんなバチバチに気合が入っていました。当時昼間部と夜間部で勝手にお互いをライバル視していたこともあり、絶対負けないぞとお互い思っていました。

勝ち負けなんてないんですけどね…笑

花火舞い散るの集合写真はこちら!

こうして1年間の本科生活を終えると昼間部、夜間部で選定され、全体で70人ほどの人数から一気に15人ほどとなり研修科へと進むことができるんです。

卒業発表で僕は全て出し切ることができたので、悔いはないと思って通知を待っていました。結果は…

研修科決定。

1年間で学んだことを出し切れてよかったなと思った瞬間でもありました。

研修科へ

研修科では2年間経験を積むことになります。年に4回の舞台発表と集中講義があり、より実践的な芝居の環境に身を置くことができます。研修科からは1期上の先輩方と一緒に出演するようになるので、先輩ともすごく仲が深まりました。

そんな研修科初めての舞台が…

『天保十二年のシェイクスピア』でした。

僕は隊長役を演じさせていただきました。

この時初めて長台詞をいただけてすごく緊張していたことを今でも覚えています。笑

研修科でやった作品は…

・『天保十二年のシェイクスピア』隊長役
・『美しきものの伝説』四分六役
・『終わりよければすべてよし』貴族役
・『三人姉妹』チェブトゥイキン役
・『アイスクリームマン』佐藤役
・『少し静かに』勝山広重/乙部理役

などなど…

研修科2年目の第3回目発表会の前に初めて外部のオーディションを受け、通過したのが『劇団めばち娘 ツチノコの嫁入り』でした。

『ピースオブケイク』という映画の中に出てくる劇中劇をリアル舞台化するという舞台だったので、出演できてよかったなと思います。

この時かなり際どい衣装だったので、この舞台でいろいろと吹っ切れたような気がします。笑

3回目の研修科発表会には出演できませんでしたが、研修科のうちに外部出演ができてすごく良い経験を積めたという喜びが強かったです。こうして年3回の舞台と集中講義を経験し研修科生活最後の卒業発表をむかえるのです。

研修科卒業公演は『転落の後に』という作品でした。

アーサーミラーの自叙伝のような話なので、本当に内容の濃い作品でした。読み合わせの段階からみんな『えっ…これやるの…?』という感じでした。

何回かの読み合わせが終わり、配役も決まって、僕はアーサーミラー役のクエンティンという役を演じる事になりました。演出の西川信廣さんが配役後に…

『こんな大作は役者人生で1回味わえるか味わえないかの作品だから、ひとつひとつ丁寧に噛み締めながら、楽しんでやりなさい。』

と言ってくださったことを今でも覚えています。

役者人生で一度味わえるか味わえないかの作品に出演させていただき、莫大な量のセリフをいただけて本当に幸せでした。セリフを覚え切った時、脳味噌のシワがいくつか増えるんじゃないかと思ったくらい…笑

今でも毎年大晦日になるとセリフを覚えるのに必死で、ひ〜こら言いながら年越し気分を味わえなかったことを思い出します。笑

研修科最後の発表を終え、準座員内定の通知を待っている時、インフルエンザにかかって寝込んでいたことは言わずもがな…笑

それだけ出し切ることができたので、結果はどうであれ悔いはないと思って布団の中で寝込んでいました。そんな中、通知書が届き結果は…

準座員内定!

晴れて文学座の準座員として劇団に所属することが決まったんです。この時寝込んでいましたが、布団の中で思いっきり『しゃーっ!!』っと叫んで興奮していました。笑

一緒にここまでやってきた同期や後輩には今でも本当に感謝しています。

文学座の準座員になってからは、劇団公演やたくさんの外部作品に出演させていただきました。準座員を2年間し、その後2018年に無事文学座の座員になったんです。文学座に入所してから6年目にしてようやくの座員になったと考えると、なんだか感慨深いですね。笑

そのほかの出演作品は文学座のプロフィールに載っていますので、よろしければチェックしてみてください。

そして現在に至ります。

ミュージカルとの出会い

最近はストレートプレイよりもミュージカルに出演させていただく機会が増えていますが、これも本当に偶然の出会いだったんです。笑

たまたま用事があり文学座の事務所に行った際、マネージャーに

『あっ!常住くん!ミュージカルとか興味ありますか?こういう話があるんですけど、オーディション受けてみます?』と言われたことがきっかけでした。

そのオーディションが通ったことをきっかけに、ミュージカルの舞台に立つ機会が増えたと思います。笑 

あの時偶然が重ならなかったら今こうしていろいろなミュージカルに出演させていただく機会はなかったかもしれません…。

僕は本当に運が良いですね!笑

などなど…本当にいい経験をさせていただいています。

文学座所属でミュージカルの舞台に立たせていただけることを誇りに、これからも日々精進し突き進んでいきます。

終わりに

長い長い生い立ち自己紹介を最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。ここに書いてある通り、僕は本当に運が良かったなと思っています。暖かく見守ってくれた家族や応援してくれる方々のおかげでここまで無事にやってこれました。これからもっともっと精進し、僕に関わる全ての方にいろんな形で恩返しできるように頑張ります!

現在、全世界がコロナで暗く落ち込んでいますが、1人でも多くの方に元気とパワー、笑顔を分けられたらなと思っています。まだまだ影響力は少ないですが、『1人でも多くの方に楽しんでもらう。』をモットーにエンターテイナーとして突き進んでいきますので、これからも応援のほどどうぞよろしくお願いします。

最後までありがとうございました。

以上つねでした!

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