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敵味方を共有しようとすること

あの人は敵だ味方だ、好きだ嫌いだ
自分の思念を話しているようで同意を求めている。
自分の意見を述べているようで、私を敵か仲間か確かめている。
怖いことだ、それにふと気がつくととても仲間ではいられなくなる。
自分もやったかもしれない。
あさましい疑ぐりを。
やられると気分が悪いものを。
賛同してやるものかと少し意地になるものを。

今、私は彼が私の嫌いな人と話しているのを遠巻きに通り過ぎる。
ああ気持ち悪い。
あの人と話す彼さえも嫌いになりそうだ。
逃げるように一人図書館へ向かった。

まるで丘の上だ。

あそこであの子があの子と話してる。
あの子のことが好きだから、
あの子とも仲良くしようかしら。
あら、二人が喧嘩を始めたわ。
それじゃあ、あの子が好きだから、
相手のあの子を嫌いになりましょう。

こういう人間をつくづく嫌だと思いながらも、
彼があの人と話してる。
私があの人を嫌いなのを知っているのに、なぜ仲良さげに話をするのだろう。
と、思いたくなくても心がそう思う時がある。
どうしようもない、彼と私は別の人間だ。分かっているつもりだ。それでも時折、余りにもいつも近くにいる彼に、私の敵味方好き嫌いを共有して欲しいという馬鹿げた気持ちがあるのだ。

馬鹿げている。
こんなのは丘の上でもなんでもない。ただの独占欲。
むしろ、落ち窪んだところから
"誰か私と一緒にここにいようよ。"
と誘う魑魅だ。
その落窪に居たければ、勝手にそこに一人でいればいい。そこにいるべき時もあるかもしれない。
でも人を引きずり込むことは違う。誰かと共有したいなら自分が平地に一度上がることだ。窪みを埋めろとは言わない。埋めることは違うと思う。
そのままでいい、無理して埋めることもない。そういうものなのだから。気がついたら少し埋まっているかもしれないし、その窪みがどこにあったのかも分からなくなるかもしれない。

しかし、気を付けないといけない。うっかり誰かの窪みに落ちない様に。誰かを私の窪みに落とさない様に。

みんなで入る窪みは怖い。誰かと入る窪みはきっと居心地がいいだろう。でも、そういうものではないのだ。
いつもそばにいる人ほどこの窪みに落とすまい。

心が貧しくなっている今の自分に詩集を渡してみる。
気がついたら出てきている筈だ。
心の広いふりをすることも大事だ。丘の上から営みを見よう。草木が揺れる様を見よう。今日の強い風に髪を乱され強く頬を打たれよう。 

彼と話す時はもう、同じ高さにいる筈。


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