正しい努力「耐えること」

ゴータマは、精進せよ!と修行者を励ます。

しかし、ある非二元論者たちは修行をすることは意味がなく、むしろそれが障害になりえるとさえ言う。

ゴータマも中道で苦行を否定しているように考えられている。
しかし、ゴータマはまたこのようにも言う。
「最上のタパ(苦行、修練)は、耐えることである。」
中道で否定されているのは、苦行ではなく、間違った努力をすることだ。

正しい努力とは、耐えること。
間違った努力は、逃げること。

正しい努力は、仏教における渇愛(好きなものを求め、嫌いなものを遠ざけようとする)を克服することを目指すもの。

なにかを獲得したいというのは、今あるものに満足できず、その不満から逃げようとすること。

なにかをコントロールしようとするとき、自分の無力感がある。そこから逃れようとするほど、余計に惨めな気持ちになる。

もしそれが獲得され、コントロールできても、一時的でしかない。新たに生じたものは、いずれ消滅する。いつも追いかけなければいけなくなる。

努力をしすぎる人なら、なにもしないことが耐えることになるだろう。
怠けやすい人ならば、むしろ努力することが耐えることにもなる。

こうすれば良い、という決まった考えは、いつも逃げる口実に使われる。
逃げようとする人は、いつもどこかに巧みに理由を見つけて逃げることを正当化する。
たとえ賢者のアドバイスであっても受け入れずに、自分の解釈に逃げようとする。
だから、ゴータマもイエスも妥協を許さない。

今度は、逃げることは良くないと考える。すると、「逃げてはいけない」と自らに強いることで、さらに逃げようとさえする。

逃げて良いわけではない。なぜならそれは一時しのぎにしかならず、余計に苦しむことになるから。
そして、逃げてはいけないのでもない。
逃げることは避けられない(仕方がない)。
もし逃げてしまったのならば、その後悔や情けなさに耐えよ。

逃げるor逃げない(戦う)の選択肢が見誤っているのだ。
その選択肢を放棄して、耐えることが、正しい努力。

このように考えると、今度は放棄しようと努力しようとする。
果たして、その努力は正しいものだろうか?

逃げる逃げないの選択するかが重要なのではない。
どちらかを選択しようした時点で逃げているのだから、その選択する以前が重要。
その選択以前には何があるのだろうか?
そこに、耐えることがある。
まず耐えられるか反発するかがあって、
反発(耐えない)を選択したあとで、逃げるか逃げないかの見せかけの選択が生まれる。

しかし、まずは、この逃げる逃げないの選択を諦めなければ、より本質的な問題は見えてこない。

どのように選択肢を諦めるか。
そのためにはまずは努力するしかない。
たとえそれが間違っていても。
正しい努力が分からないからといって、怠けてはいけない。

しかし、間違った努力は、辛い。
だから、継続できない。
そのときに、人は諦める(悟る)。

逃げ続ける限り、人は直面することがない。
しかしまた、いつまでも逃げ続けることもできない。
いつか必ず直面し、人は諦める。

人は好ましいものを求め、嫌いなものを遠ざけようとする。進んでも、下がっても満足はない。
諦められるまでは、中道(安らぎ)は見つからない。

はじめから諦めることはできない。
それは逃げることでしかない。

もしどこかで必ず直面しなければいけないのならば、挑戦するしかないのではないか?
死は、思いがけないタイミングでやってくるのだから。

楽がやってくるように、苦しみも避けられない。
なぜ苦しさに困難を感じるのだろうか?
それは逃げるからだ。
逃げることで余計に苦しむ。
逃げないほうが、苦しみはずっと少ない。

例えば、肝試しで、一度走り出してしまうと、もう止まることができないほど怖くなるのは、逃げたから。

努力するのが辛いと感じるのは、逃げているから。
努力の仕方が間違っているのだ。

もっと頑張りたいと感じるなら、立ち止まってただ静かにしていなさい。
もう頑張りたくないと感じるなら、奮起せよ。

もしやめたいと思うならば、続けなさい。
まだやめたくないと思うならば、放棄せよ。

もう投げ出したいと考えるならば、むしろ抱えなさい。
まだ投げ出したくないと考えるならば、自ら捧げよ。

そんなの辛いと思えるだろう、しかし、覚悟を決めてしまえば、案外辛くない。
覚悟を決めるのが怖くて抵抗しているのだ。

迷ったならば、自らの(逃げたいという)思いと、逆のことに向かう。
それが耐えるということ。

得る(奪う)ための努力は要らない。
与えられるために(与える)努力せよ。

変えようとする努力は要らない。
受け入れられるよう努力をせよ。

幸せになるために努力はいらない。
心から幸せを求めよ。
そして、ただ静かにしていなさい。

自ら生み出す恐れに立ち向かえ。
恐れは、はじめに立ち止まるときだけ。
そうすれば、なにもせずとも、辿り着く。

もし今が苦しくないならば、攻めよ。
苦しみは眼前に迫っている。
人はいつも苦しみの危険に脅かされていることを忘れてはいけない。

苦しみとは学びのこと。
チャレンジしなければ学びはない。
楽は癒やしのこと。
癒やしがなければ、味わえない。

苦か楽かは選べない。
それでも、もし選ぼうとするならば、苦しみを選べ。

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