第四を探せ!「相対(二元性)を超えるのが、四番目 」

一つは、偏見だ。
物事は相対的なのだ。
「ある」は「ない」に補完されている。
一方だけでは成り立たない。
一つは、物事を見たいようにしか見ていない。

二つは、極端な見方だ。
それは対立や矛盾を生み出す。
「ある」か「ない」か、「善」か「悪」かなどの議論をし続ける。

三つは、二つからの逃避だ。
逃避である限り、二つに囚われている。
「あるでもないでもない」や「あるでもないでもある」などの中間はまだ両方を含む。

ニ(二元性)に対して、一が非二元なのではない。
それならば、非二元などと呼ばず、一元とするがそうではない。
真理は否定形として、その非実在性によって示される。
そして、二でも一でもないならば、三ということにもならない。それは迷いだ。

相対(二元性)を超えるのが、四番目。
それが、非二元である。

バガヴァット・ギーターでは、主人公アルジュナが戦争の直前に対戦相手を見たとき、そこに親族や友人がいるのを知って戦意を喪失してしまう。
「どちらがよいのかわからない。我々が勝つべきか、彼らが我々に勝つべきか。」そして、悲しみに心乱れて「私は戦わない」と言って沈黙する。
そこでクリシュナが、真理を説いて説得する。

一が攻め、二が守り、三が逃げ、それらではなく、それら超えた第四が真理となる。

苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。

ヴェーダは三要素よりなるもの(現象界)を対象とする。三要素よりなるものを離れよ。アルジュナ。相対を離れ、常に純質に立脚し、獲得と保全を離れ、自己を制御せよ。

あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。

アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。

知性をそなえた人は、この世で、善業と悪業をともに捨てる。それ故、ヨーガを修めよ。ヨーガは諸行為における巧妙さである。

「バガヴァット・ギーター」

一と二を平等に見るとき、合一が起こり(三)、それらを超えて四番目。
一と二の相対的な平等から、絶対的な平等(第四)への飛躍。

正反合(一二三)の弁証法の限界は、思考(知性)の限界。
それを超えて、真実へ。
あえて言えば、弁証法を弁証法するとなるだろうか。

三位一体では、三が重要なのではなく、一体(合一)し、それを超えた四番目。


時間では、過去でも現在でも未来でもなく、四番目。

意識について、目覚め、眠り、夢見の三つから、四番目。

一、二、(三)→四=非二

四番目の発見が、次の次元、階層へと超えること。
そして、その階層は四つある(四重構造)。

四番目×四階層

最後には、四つの階層をすべて超える。
理論的には非二元だが、その理論を捨てていく。

部分、中間、全体の三つをまとめて部分性。
部分性と質的に異なる全体性(第四)。
そして、その全体性を超えた真実へ。

前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。
生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

「ダンマパダ」

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