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愛のからだ 〜NVCとキリスト教小話①〜

This article is inspired by Pastor Paul Johnson’s sermon at ICU Church.

 何度も何度も読んだ、聞いた箇所がまったく新しい見たこともない角度で目の前に現れることがある。だから、聖書って面白いとまたこの日も思ってしまった。(それは2020年の2月9日のことだったのでした。)

13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8愛はいつまでも絶えることがない。
コリント人への第一の手紙第13章4節−8節 口語訳聖書

 久しぶりの日曜日なのに、いつものように礼拝に遅刻した。子どものためのメッセージが終わり、報告、献金を挟んで……今日の説教者は、ポール先生か。聖書朗読に間に合わなかったので、献金の合間に説教主題の聖書箇所を聖書アプリで確認する。と、ここ(1コリント13:1−8)だった。

 もしかしたら、人生で一番多く聞いているかも。そういえば最近この箇所を聞かないのは、結婚式に呼ばれることが減ってきたからだなあ、などと思っていたのだが、説教を聞いているうちに、なんというかある洞察が来てしまった。洞察っていうか、これも聖霊の仕業なのかなw? ちなみに説教はちゃんと聞いたぜ。ポールの英語はわかりやすいし。

 最近の万里ちゃん(NVC=非暴力コミュニケーションの講座や集いを一緒に開催している私の相棒)が講座で話すテーマは、一貫して”(共感的な)からだづくり”。もちろん、物理的な筋トレをしているのではない。しかしながら、物理的な筋トレに近いことを目指してはいる。”非暴力なからだ”をつくる道を探索し、実践しているとでも言おうか。

 NVCの4つの要素「観察」「感情」「ニーズ」「リクエスト」は、誰もが最初は意識してやってみることになる。そこから紡ぎ出される話し方はぎこちなく、対話の相手も「???」となることが多い。
 
 というのも、この非暴力的な、相手の領域を侵害しない、お互いの中に生き生きとうごめく命を、つまり”今ここ”を捉えるプロセス言語の表現は、そもそも私たちが獲得してきた話し方とは異なり、話すときの意識の有り様、意図の置き場は大きく異る。絶たれたつながりをつなぎ直し、癒やしと和解をもたらす修復的司法の世界観をこの世に顕そう、描こうという試みなのだから。

 それゆえに、多くの人は、もちろん私自身も、学び始め使い始めはギクシャクと大岩小岩を乗り越えるようにしながら、ときに砂利に足をとられながら不格好に進んでいくのだ。私はと言えば、学び始めてから10数年経っているにもかかわらず、ほとんどこれまでのところ、ギクシャク、ギシギシ、えっちらおっちら、足元に気をつけ、よろめきながら、進んだり戻ったり、不器用にかつできるだけ真摯に自分の内側を見つめ、相手の中にうごめく命を見つめつつ、口を開くのみ。

 NVCはシンプルなメソッドでありながら、意識せずに行うことは相当遠い。いつもできるわけもなく、単に反応してしまったり、自分の内側はなんとか捉えても、相手にじっくり目を向ける余裕がなかったり。あるいは相手にばかり気を取られて自分のことを棚にあげてしまっていたり……。なんだかモヤモヤが残る会話を思い返しては「ああ、そうかこんなことが言えばよかった」「こんなふうに在りたかった……」と後から思うことが多い。

 それでも学びを重ねる中で、ごくわずかに何度か、自然と”そうなってしまう”こと(自分を捉えつつ、相手を受け取る)を体験したことがある。それは経験の長短にかかわらない。できる、できないの世界でもない。

 ”からだ”が自然とそうなるのだ。そうとしかならない、のだ。”そう”とはつまり、自分を共感で満たした状態で、相手にふっと純粋な興味が向いていく……。見えるものが変わり、自分の眼差しが変わる。変わったと気づくまもなくもう動いている。

 今日、この聖書箇所を改めて読み、そして耳から聞いたとき、「ああ、そうか」と思った。寛容で、情深く、妬まず、高ぶらず、誇らず、不作法をせず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない……のは、「そうなろう」と努力してなるのではない。そうとしかならないのだ。だって、もう愛の”からだ”になってしまっているのだから。

 だから、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。そしていつまでも絶えることはない。もう、愛の”からだ”になってしまっているのだから。
 
 愛であろうとさえしない愛。もう、愛のからだになってしまっているのでことさら「愛であろう」とする必要がない。パウロ(注:聖書のこの箇所の著者)はその状態へ私たちを招いているように思うのだが、どうだろう? でもって、たぶんパウロ自身はその状態にあるのではなく、その状態を体験したことはあるのだろうけれど、常にそうであるわけでもなく、”愛のからだ”に憧れているんだろうなーっていうのが1コリの手紙のそこここに感じられるんだけど。なんちゃって。
 
 アハハ、また誰かに「のぞみ神学」言われそうだけど。 さておき、ここで大胆に私の解釈を言えば、”愛のからだ”、すなわちその態は「自分のニーズに深くつながっている状態」のことだ。

 この解釈は、それほど的外れではないのじゃないかしらん? というのは、続く箇所にはこうあるから。

13:11わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

 NVCを学ぶ人は聞いたことがあると思う。「NVCを学ぶことは、それまでの人生で学び身につけたことを、unlearn することだ」。unlearn ーなんて言ったらいいのかな、忘れる……のでもない。一度学んだことを白紙にする。手放す。……みたいな?

 私たちは皆、大人になる過程で「自分を守るために」さまざまな防衛方法を学んできてしまった。例えば、自分の感情を表に出さないようにする、そもそも感情を感じないようになってしまう、とか。受け入れられるためには、自分がやりたいことや好きなことをするよりも、誰かに気に入られるように行動した方がうまくいく、とか。言うことを聞く良い子でいる、あるいは成績がよければ評価してもらえる……とか、とか。

 それらをunlearnして、「幼子らしく語り、感じ、考える」愛のからだになる。

 遠いようで以外と近くにあるかもしれない愛のからだ。実はとってもシンプルな愛のからだ。上から垂直に注がれる愛を、ただただ自然に水平に溢れさせる愛のからだ。

 そんな器に気づかないうちになれるのかな? どうなのかな? 気合い入れて目指したりしたら、きっとたどり着かないんだろうな。最短ルートなんてないんだろうな。まあそれでもいいかぁ……などと思いつつ、ギクシャクギクシャク、なんども壁に当たりながら今日も歩いていくのです。

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