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マイノリティって誰にでもあるんじゃない?

この一年くらいの読書のテーマに「マイノリティー」があるんです。

きっかけは、「あふれでたのはやさしさだった」という一冊の本。
これは、ある本のイベントであったトークショウの後に登壇者に「あなたの人生を変えた一冊を教えてください。」と質問して紹介された本だったんです。

この本は、奈良少年刑務所で行われていた、作家・寮美千子の「物語の教室」とその授業を受けていた少年たちが紡いだ詩集なのです。

この本を読んだときほど、心揺さぶられたことは最近ないほど衝撃でした。

ひとって、根っからの悪い人はいないし、それぞれが違っていてその違いこそが尊いのだけども、ひとと違っていることを否定している自分や世間があるってこと、そこに生きづらさがあるんだと気づいたんです。

そういった意味で、目に見えるマイノリティーもあるが、目に見えない、ひとりひとりが抱えれてるちょっとした人との違いもある意味その部分はマイノリティーなのじゃないかな?と思うんですよ。

誰もその個性を認め合い尊重する世の中ができれば、それはもうマイノリティと言う概念がなくなるんじゃないかな?

ちなみにですが、マイノリティ関連本の遍歴は、

累犯障害者
居場所を探して
デフ・ヴォイス
龍の耳を君へ
慟哭は聞こえない
わたしのいないテーブルで
マイノリティデザイン
マイノリティ・マーケティング
異彩を、放て。
根っからの悪人っているの?
アルジャーノンに花束を
などなど、

これらの本を読んで、僕の中でマイノリティと呼ばれる人たちへの関心が深まっていったんです。

そして、そんな時「デフリンピックの歴史&デフバレーボールの魅力」という講演会があるのを知り聴きに行きました。登壇者はデフバレーボール元日本代表の信田光信さん。当然ろう者です。

講演会に来られ得ている方のほとんどがろう者やその家族・関係者たちです。
わたしはそこでは断然少数派、手話が出来ないわたしは受付で全くと言っていいほどコミュニケーションが取れない。参加名簿から自分の名前を見つけ、なんとか身振り手振りで参加料を支払い、空いた席を見つけ席つくことができたのです。
それから、講演が始まるまでの時間、誰ともコミュニケーションができず、ただ座っていました。

講演は、手話通訳の方が音声通訳をしてくれるので理解できますが、聴講者がときおり雑談していることは全く理解できません。会場の端と端で会話をしていたり初めて見る不思議な感じです。質問があると質問者は登壇者のいる横まで出てこちらへ向かって手話で語りかけて来るんです。健聴者であれば自分のいる場所からしゃべるのですが、手話だとそれではみんなに当然伝わりませんよね。そんなことも新鮮でした。

講演で印象的な話は、日本代表が最初はろう者ばかりだったのが、途中から難聴者の加わり、その時点からコミュニケーションの課題が出てきたそうです。それまで手話で意思疎通をしていたのが難聴者とはコミュニケーションが取れなかったのだそうです。そんなことすら、わたしは知りませでした。

少し例えがおかしいかもしれませんが、西洋人は見た目は同じ様に見えてしまっていますが、実は母国が異なっていますよね。それとおんなじで見た目は同じ耳の聞こえない人なのですが、聞こえのレベルや教育の違いでコミュニケーション方法に違いがあるのです。

なにが言いたいかというと、私たちは理解のし易さから、いろんなことを括って一般化しがちですが、実はひとりひとりの事情は違っていて、ひとりひとりに対して対応してないといけないんじゃないのか?と言うことを感じたのです。
難しいことではあると思うのですが、そういう意識で物事を捉えると言う姿勢は大切だと言うことが言いたかったのです。

そして、最近仕事で、会社の施設を訪ねるろう者・難聴者に対する「情報保障」をどうするか?と言うことを解決するワーキンググループに参加することになったんですが、今までの読書や講演会参加の体験んはこのためにあったのか?と不思議な思いでいます。

きょうも最後までお付き合いありがとございました。

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