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自己紹介①

幼少期

1963年 静岡市で生まれる
1963年6月26日に静岡市で生まれる。
記憶があるころには、名古屋で暮らしていた。

姉貴と

一つ違いの姉がいていつも姉の後をついて回っていてお人形で遊んでいたそうだ。今でも女性の中でひとりになっても全く居心地が悪くならないのはこのころの影響だろうか?

幼少期で一番古い記憶に残っているのは、父親が乗っていたカブの荷台に乗って喜んでいた事。きっと、この頃から動くものが好きになって今の仕事へ繋がっていると思う。

幼いころに住んでいた家からは地下鉄が高架を走る姿が見えるところで、周辺の道は未舗装で周りには2階建て以上の建物はなく田畑が残る田舎でした。

年長の時に名古屋の中心部丸の内にある団住宅へ引っ越し、玄関を入ると家の中に階段があるその当時では珍しいメゾネットタイプだった。

ある日、夜行列車に乗って名古屋から熊本へ母親と姉の三人で旅行に行ったのだが、それはいわゆる、『子供を連れて実家に帰らせてもらいます』ってやつ。そして、その夏突然と姉と私を置いて母親が居なくなった。


小学校時代 1970年~1976年 

当時開校100周年を迎えるという歴史ある小学校へ入学。児童の3割が越境入学と言うちょっと変わった学校であった。

小学校1年生の頃は父子家庭だった。
今でも覚えているのは、学校へ持っていく雑巾や運動会で使う玉入れの玉がまわりのみんなと違って少し悲しかった。でもそれを親父には言えなかった。

しばらくすると、新しいお母さんがやってきた。
姉貴はなんだかあまり嬉しそうでなかったが、僕はとても嬉しかった。
でも甘えたいけど甘えられない感じで、ずーっといい子でいたと思う。

運動会でのひとコマ


住んでいた公団住宅の同じ階の同級生は女の子ばかりで、低学年の頃は相変わらず女の子と遊ぶことが多かった。

小さい頃から計算が得意で、祖母の家に行くといつも褒めてくるので、得意になって勉強を頑張った。
自由自在(参考書)をクリスマスプレゼントに買ってもらうような子だった。
目立ちたがりで、4年生からは学級委員長を務めていた。

中学校時代 1976年~1979年 

小学校とは対照的に開校11年目という新し中学校へ入学。
ここでも半数が越境通学と言うこれまた変わった中学校であった。
そのせいか、その時代にはどこにでもいたヤンキーは生息しておらず、とても穏やかな校風であった。

その頃の出来事で覚えてるのは、担任がとても理不尽で反抗してクラス全体で授業ボイコットを主導したこと、何が理不尽だったのかはもはや覚えていない。

3年生の頃、なぜかライバル視していた同級生が生徒会会長に立候補すると噂を聞き、どういうわけか生徒会長にしてはいけないと思いたちその一点だけの理由で立候補した。
そしたら、そいつは副会長に立候補して、結局同じ生徒会を運営することになる。
そのあげく、母親には生徒会長になったことを喜んでもらえるどころか、「それより勉強をがんばりなさい」みたいな事を言われて少しへこんだ。

でも、学業にクラブ活動に励んだ3年間であった。
今でも、地元に帰ると必ず会うのは中学の時の同級生だ。

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