愛より確かなものなんてない

大好きな春ねむりさんの大好きな曲。
サビでも繰り返される印象的なフレーズがタイトルになっている。
日本語のタイトルもすごくいいけど、Trust Nothing but Loveの方もめちゃめちゃかっこいいね。


歌詞を解釈してわかった気になるようなことはしたくないけど、こういう印象的なフレーズを聴くと、その意味を自分なりに咀嚼してみたくはなる。
文章や歌詞に唯一の正解などなくて、読み手の数だけ正解があるはずだし、考えること自体に意味があるのだ。と思う。

最初に聴いたときからずっと、ねむりさんの、生の感情をそのままぶつけてくるような歌い方も相まって、「愛を信じられなくなっているからこそ、すがるように、『愛より確かなものなんてない』って信じたくて、祈るような歌なのかな」と思っていた。

永遠の愛を誓った夫婦の愛が、必ずしも永遠でないことは誰でも知っている。ただ、その愛に終わりがあったとしても、永遠の愛を誓った時の感情が嘘なわけではないし、その愛がなかったことにもならない。
神様でない人間が、永遠の愛を保証できるはずはないんだけど、だからこそ、「永遠にあなたを愛したいと思っている」という意思表示に価値がある、と思う。これは今でもそう思う。
なんでもアイドルの話にして恐縮だけど、ヲタクの「ずっと好き」「一生推す」も同じで、そんな保証はできないんだけど、その時点で、ずっと好きでいたいと思っていること、それくらい好きだということ、その意思表示をしているということだ。半年後には違うアイドルを推していて、その現場は他界しているかもしれないけど、そうなったからといってその時の愛が嘘であったわけではない。

いわば、確かでないからこそ、「愛より確かなものなんてない」と意思表示することに意味があって、祈りのようなものなのかな、と考えていた。

これは小沢健二の戦場のボーイズ・ライフの歌詞。
小沢健二の歌詞のことを話し出すと終わらなくなるのでやめておこう。


でも、昨年末のエントリーで「愛とは見返りを求めない感情であるはず」「愛とは能動的で自分勝手な感情だ」と書き、今日改めてこのフレーズを思い出したときに、「愛とは自分だけで完結する感情であるとするなら、その時点では、その言葉通り、この世で最も確かなものなのかもしれない」と思った。

デカルトの方法序説によれば、「この世のすべてのものの存在を疑ったとしても、それを疑っている自分自身の存在だけは疑うことができない」。

すると、この世で唯一、確実に存在を証明できる「自分」のなかで完結している感情である「愛」とは、これ以上なく確かなものである、と言えるのではなかろうか。

不確かだから、祈るような気持ちで歌っているのではない。
この世で唯一、確実な存在である自分の愛は、文字通り、それより確かなものなんてない存在だ、という宣言なのかもしれない。

そう考えると、"Everything is my world"、"Everything is your world"という歌詞も、そういう解釈ができるような気がしてくる。
そして、ちょっと前まで悲壮な祈りに聴こえていたこの歌が、誇らしげに自分の愛を歌う前向きな歌に聴こえてくるから不思議だ。

"Everything is your world"は、相手側の愛の話かなと思う。
享受する愛、つまり自分が愛される側になる場合の愛は、自分のものではなく、相手の感情である。そこにある確かさは相手の中にしか存在し得ない。
でも、自分が愛している相手の愛を疑うことほど不毛なことはない。信じるということも純粋に能動的な行為だ。信じると決めたのなら信じればよいし、それがもし裏切られたとしても、悪いのは信じることを決めた自分なのだから諦めがつく。
「信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つく方がいい」
誰もが知っている有名な曲の、このフレーズが、昔からすごく好きだ。


前に自分が考えていたことも、今日ふと思いついたこの解釈も、どちらも自分のなかでは正しい。ほかの誰かにとって正解ではないかもしれないけど。

この、自分のなかで新しい解釈をみつける瞬間がとても楽しくて、好きな歌詞や文章を読んだり聴いたりしては、あれこれ考えている。
考えることはやっぱりとても楽しい。

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