読むことと書くこと

昨日久しぶりにここで思いの丈をアウトプットして、それが思いのほか楽しかったのと、愛してやまない推しのnoteをみてたらいろんな刺激を受けてまた書きたくなったのとで、今日も更新してみる。
今年に入って書いたのは1月と5月にひとつずつだったのに、約半年ぶりに更新したと思ったら2日で4つ。
ムラがありすぎるし内容の振れ幅もすごい。


自分は映画やアニメより小説やマンガが好きな人間で、好きな芸人さんのラジオも、聴いたらおもしろいだろうなと思いつつもついつい文字起こしされたテキストを読んじゃう、ガチガチの視覚情報優位タイプだと思っていたんたけど、改めて考えると、確実に映像よりも音楽の方が好きだし、単に、複数の感覚情報を同時に処理するのが苦手というADHD特性の問題なのかもしれない、と最近気づいた。

あと、知覚した情報を自分のペースで処理したいっていう思いがあって、映像って当たり前だけどテーラーメイドでしかも視覚情報+聴覚情報だから処理がおいつかなくて、それで苦手なんじゃないかと思う。

だから本当は、自分にとってめちゃめちゃ大好きなライブを観るという行為も、情報量が多すぎて処理しきれないことがあって、推しの美しすぎるお顔をみることに集中するあまり、大好きなフレーズを聴き逃す、ということがしばしばある。
ディオも承太郎もディアボロもできなかった「時間を巻き戻す能力」をもつスタンド能力がもし自分に発現したら、世界を救うためとかではなく、まず自分のために、推しのライブで使いまくりたいと思う。

その点、文章(やマンガ)を読むというのは純粋な能動的行為であり、完全に自分のペースで行うことができる。
情報処理に時間がかかるときにはペースを落としたり何度か繰り返し読んだりすればよいし、興味ない部分は斜め読みすればいい。

だから自分は「読む」という行為が好きなんだと思う。


書く方に関しては、書くのが好きというより、とにかくいろんなことを考えるのが好き、というのがまずあって、その考えたことを、忘れないように、あとで読み返せるようにしたくて、それで書いている、というのが近い気がする。

だから、自分の考えに極めて近いなと思う文章を見つけた瞬間、書こうと思ってた文章を消して終わりにしちゃうということもある。

書きたいというより、その考えを記録しておきたい、ということなんだと思う。

自分は無駄な謙遜は一切しない人間で、なんなら自分が世界一の天才なんじゃないかと思ってるくらいだからこれは謙遜じゃないんだけど、自分には文章の才能はない。

美しい文章や独創的な言葉選びにあこがれるし、自分もそんな文章を書けたらよかったなーとは思うけど、自分が思うにそれは無から何かを生み出す芸術の領域であり、そういうクリエイティビティが幼少期から自分には全く存在しなかった。
でも、自分はそういうアーティスティックな能力を一切持たない代償として論理的思考やメタ認知力を獲得してるんじゃないかとも思っていて、そして自分はいまの自分がとても好きなので、トレードオフになるくらいなら今の自分で全然いい。才能のある人が書いた文章を読むだけで全然幸せになれるし。

そして、自分は自分が書いた記事がかなり好きで、定期的に読み返している。
文章は別に美しくも独創的でもないけど、その内容が好きだから、「なかなかいいこと書いてるな」ってうなずきながら読んだりしている。

誰かが読んでくれて、いいねしてくれたりしたらもちろんうれしいんだけど(いいねをくれるのは、たいてい「フォロワーを1000人ふやすコツ教えます!」とかいう薄っぺらい記事を固定してるペラブロガーなんだが)、それは結果であり目的ではない。
記事を書く目的はあくまで「考えてることの記録」だから。


とはいえ、読む側としてはやっぱり、アーティスティックな文章に惹かれる。
自分がもっていないものだから余計にそうなのかもしれない。もってなさすぎて悔しさのかけらも感じない。ただただ見惚れてしまう。

最初にも書いたけど、大好きだったグループの推しのnoteが本当にすばらしすぎるので、どうしてもそれを書きたくなった。
歌声と容姿がとてもとても大好きで推しているわけなのに、こんな美しくておもしろくて独創的で心に刺さる文章を書けてしまうなんて…いったい何を犠牲にしたらこんな才能を得られるのだろう。

この記事がいいね目当てのお世辞でないことの証左として推しの名前は書かない。書かないけど本当にすごくすごく好きですし尊敬しています。待ってます、でもどこかで息を吸ったり吐いたりしてくれているだけでも幸せです。

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