リハビリSS 「宝箱」


「帰るの?」
「んー」
健ちゃんは気だるげに言葉とは言えない返事をして、ベッドの下に落ちたパンツを拾い上げた。間接照明が部屋の中をぼんやり照らして、表情が見えない。
何も話さないままさっさと服を着て、斜め掛けのポーチに荷物をしまって立ち上がる。私はそれを裸のまま座って見つめて、健ちゃんが何か言うのを待つ。
私の視線に気づいたのか、振り返り、私の目を見て、鼻でため息をついてから、軽くキスをした。
「…おやすみ」
うん、と小さく返事をする。いつもこうだ、もう少しだけ、と願う前に帰っていく。今日も最後のキスの後、一度も目を見ずにさっさと出ていった。もう少しくらい丁寧に扱って欲しいなぁと思いながら、仰向けに倒れて天井を見つめる。
鍵をかけに行かなければ、その前に服を…いや、シャワーを浴びるのだから裸のままでいいか。
目を瞑って考える。このまま鍵もかけずに裸のままで眠ったとして、そしてこの部屋に殺人犯が入ってきて、眠ったまま殺されたとしたら。
そしたらきっと、健ちゃんが重要参考人として一度は挙がるだろうなぁ。彼の痕跡だらけのこの部屋で、死んだ私を思い浮かべて、鍵のことくらい気遣ってやればよかったと思うのかな。
…思わないか。だって私は性欲のゴミ箱だもんね


宝箱

新幹線の車窓からの景色は、思っていたよりずっと退屈だった。いつもはiPhoneで何かを見たり、寝たりしてたけど…今は何もする気になれない。
おばあちゃん、いよいよあかんわ。
電話の向こうの母の声を思い出すだけで、胸がキュッと締まる。
おばあちゃんは、半年前から入院していた。詳しい病状は知らされてなかったけど、大丈夫だからとりあえずお盆にでも顔見せにおいでと言った母の声から、全く大丈夫では無いということだけはわかっていた。
娘であり、姪っ子であり、孫である私はいくつになっても実家では子供扱いだ。辛い話はいつもオブラートで何重にも包んで話される。
夏が来て、8月に入った今日まで一言の知らせも無かったことで、私も油断していた。お盆にはゆっくり話せると思っていた。
…今日帰って、おばあちゃんは話せるのだろうか。
落ち着かなくてスマホの通知を見ると、10分前に健ちゃんからLINEが来ていた。
『ネックレス忘れたんだけど、取り入っていい?』
4日前、そういえば外してたな。冷蔵庫の上に置いてたな。すっかり忘れてた。
『ごめん、おばあちゃんが危篤だからいま実家に向かってる。10日くらい帰らないからその後でもいい?』
送信ボタンを押しながら、心配とかしてくれたりして、と期待した。けど2分後に返ってきたのは『りょーかい』だけだった。
ため息をついてスマホを閉じた。
おばあちゃんごめんね、こんな孫で。


新幹線で4時間、そこから迎えに来た父の車に乗り換えて20分。実家の玄関に投げ込むようにスーツケースを置いて、休む間もなく病院へ。
私の落ち着かない様子を見てか、父はほとんど私に話しかけなかった。その沈黙が、余計に私を緊張させた。いつもは帰省した私に鬱陶しいほど話しかけてくる父の沈黙。おばあちゃんの容態に対する一種の答えのように思えた。
それから父の誘導でおばあちゃんが入院してる消化器科へ。走ったわけでもないのに心臓の鼓動は早くなり、呼吸は浅くなる。ナースステーションの前で母と合流して、病室の前に着く頃にはもう倒れそうなほどだった。
母が私の背中を擦りながら、病室のドアをノックする。中から叔母の声ではーいと返事が聞こえたので、ゆっくりドアを開けた。
中は個室だった。夕日が差し込んで明るい部屋だ。ベッドの近くの棚には、おばあちゃんの好きだった花や家族写真が置かれている。
窓際のパイプ椅子に座っていた叔母が私の顔を見て立ち上がり言った。
「あらぁ美紀ちゃん!よぉ来たねぇ!おばあちゃん今ちょうど寝てしもたんよ」
叔母に手招きされてベッドに近寄る。鼻から管を入れられたおばあちゃんが、薄く口を開けて眠っている。最後に会った時より痩せていて、くっきりと浮き出たフェイスラインが痛々しい。
小さく上下する布団を見てほっとした反面、話せなかったという落胆もある。今のおばあちゃんには、明日目覚めるという保証がないのだ。
「明日起きるか、明日はずぅっと寝たままか…」
その先の言葉に迷って黙った叔母が、私の肩を掴んで擦る。慰めるように、励ますように。
私は慎重におばあちゃんの横まで行き、それからしわしわの手をそっと握った。握り返されることはなくても、暖かい。
「…また明日来るからね」
小さくそう呟いて、その手を撫でる。
おばあちゃんはやはり、応えなかった。



母によると、おばあちゃんは一日に4時間ほど起きている日もあれば、何日も眠ったままで時々薄目を開ける程度の日もあるらしい。私が到着した日は起きている日だったらしく、次にいつはっきりと起きるのかはわからないとのことだった。
お盆休みと繋げて、休みはたっぷり11日間。
朝起きて、ゆっくりと適当な服に着替えて、スマホの充電器と実家の自室に残っていた小説を持っておばあちゃんの病室に向かう。
おばあちゃんの隣のパイプ椅子に腰かけ、数十分に一度立ち上がっておばあちゃんの顔を覗き込む。そして少しだけ話しかけてみる。
そうやって過ごして、2日経った。
…もしかしたら、おばあちゃんとはもう話せないのかもしれないと思いだした頃だった。
さっきまで一緒におばあちゃんに付き添っていた母は、ランチタイム中。留守番の私は同じ姿勢で本を読むことに飽きて、花瓶の水でも変えるかと背中を伸ばした。
「んん〜…」
立ち上がり、そのついでにおばあちゃんの顔を覗き込むと、おばあちゃんはしっかりと目を開けて天井を見つめていた。
「えっ、起きてたの?!おばあちゃん、言ってよ」
おばあちゃんはぼんやりとした視線でゆっくり、ゆっくりと私を見る。そして震える声で言った。
「美紀ちゃん…おばあちゃんの宝石箱…」
「宝石箱?宝石箱がどうしたの?」
久々に聞いたおばあちゃんの声のあまりの弱々しさに、うっかり涙が浮かんできてしまった。それを誤魔化すように、はっきりした口調で問う。
「宝石箱、持ってくる?何か見たいものある?」
「…宝石箱、約束通りあげるけんね…いっぱいにしてくれる人と一緒になるんよ…」
おばあちゃんは私の胸元に震える手を差し出した。私は出来るだけ強く、しっかりとその手を握り返す。
お願い、最後みたいなこと言わないで。
「おばあちゃん、そんなこと言わんでよ」
「…美紀ちゃんのこと、宝箱みたいにしてくれる人じゃないと…おばあちゃん呪うけぇ」
私の不安とは裏腹に、あまりにも強い発言に思わず吹き出す。泣いていいのか笑っていいのか、わからずに顔をくしゃくしゃにしてしまう。
「なんてこと言うんよ!」
私は精一杯口角を上げて言う。おばあちゃんもうっすらと笑い、それからうとうとと瞬きしながら言った。
「約束よ、おばあちゃんと…」
おばあちゃんがゆっくりと目を閉じたその時、繋がれていた心電図が警告音を鳴らす。
いろんなことがいっぺんに起きて、一瞬固まってしまった。私は1〜2秒のフリーズのあとナースコールを押そうと手を伸ばす。手が震えて上手く押せずにいると、廊下からバタバタと足音が聞こえて看護師が2〜3人飛び込んできた。
「尾形さーん、尾形さん聞こえますかー?」
「先生尾形さんVTです!」
ベテランの看護師が私を見て、若い看護師にアイコンタクトする。頷いた若くて可愛らしい看護師が私の手を取り言った。
「お孫さん?大丈夫だから、落ち着いてご親族にご連絡してもらえますか?」
私は震える声ではいと返事をする。半ば押し出されるように個室から出された私がエレベーターの方を見ると、ちょうど母が戻ってきたところだった。
ただならぬ雰囲気を察した母が、私を抱きしめる。
「大丈夫よ、大丈夫じゃけ泣かんで」
そう言われて初めて、自分が泣いていることに気づいた。
泣いてることに気づけないなんてこと、本当にあるんだなと思いながら、母にしがみつく事しか出来なかった。


その1時間後、おばあちゃんは息を引き取った。


全開にした窓の外から、ひぐらしの声が聞こえてくる。
昼の情報番組の音声と混ざり合い、言葉とも雑音とも言えない、ジワジワという音になっていた。これが夏の音なんだな、と思いながら目を開ける。
起き上がり、台所の方を見るとおばあちゃんが夜ご飯の準備をしているのが見えた。トントンという包丁の音が心地よい。私が起きたことには気づいていないようだった。
寝てると思ってるんだ、とわかったら途端にイタズラ心が湧いてきて、音を立てずにゆっくり立ち上がる。抜き足差し足忍び足と心で唱えながら、おばあちゃんの化粧台の、1番下の棚を開けた。
そこに何が入っているのかは知っていた。おばあちゃんの宝石箱だ。木で出来ていて、ちょっと重くて、綺麗な柄が彫られている白い箱。私はそぉっとその箱を持ち上げて、しゃがみこんだ膝の上に乗せた。
箱の蓋を撫でたり、柄をなぞったりした後に箱を開けようと留め金を摘んだその時だった。
「イタズラする子はだーれだ?」
後ろから声をかけられて、ビクンと肩がはねる。振り向くと、おたまを持ったおばあちゃんが腰に手を当てて立っていた。ちいさくごめんなさいと言うと、おばあちゃんはふふっと小さく笑って私の前に正座した。
「おばあちゃんの宝石箱、見たかったん?」
「うん、おばあちゃんいつも指輪とか着けんけぇ、どんなの持っとるんかなって」
おばあちゃんはニコニコしたまま宝石箱を私の膝から取上げて、自分の膝の上に置いた。それからゆっくりと留め具を外し、箱を開けて私に中を見せた。
「おてがみ?」
中に入っていたものの大半は宝石ではなかった。
赤ちゃんの写真が数枚、家族写真が数枚、手紙やボロボロになった肩たたき券。底の方にネックレスがひとつと、指輪がふたつ入っていた。
「ネックレスもある」
「これはおじいちゃんが若い頃に買ってくれたんよ。指輪は結婚指輪。おっきいのはおじいちゃんのよ」
「これ、おばあちゃんの宝箱なん?」
宝石箱だと思っていたものに違うものが入っていたのが純粋に疑問だった。おばあちゃんはにっこりと笑ってそう言う。
「そうよ、ぜーんぶおばあちゃんの宝物。おばあちゃんが死んだら、この中のもんみーんな一緒に燃やしてもらうんよ。ほんでこの箱は、美紀ちゃんにあげるわ」
おばあちゃんの突然の発言に私は凍りついた。その時まで、私はおばあちゃんがいつか死ぬという可能性を知らなかった。
おばあちゃんの膝にしがみついて「嫌や!死なんといて!」と悲鳴をあげた。おばあちゃんはトントンと宥めるように私の背中を軽く叩く。
「いつかは来るんよ。そしたら今度は美紀ちゃんが、おばあちゃんと同じように、この宝箱をいーっぱいにするんよ」
嫌や!嫌や!と泣き叫びながら、おばあちゃんの膝で顔をゴシゴシと擦る。優しいおばあちゃんの手を感じながら、私はいつまでも泣いた。
泣いて、泣いて…それから、どうなったんだっけ

薄く目を開けると、ちょうど朝日が昇る頃だった。
夢を見てた。おばあちゃんの夢。
通夜と葬儀を終え、お骨になったおばあちゃん。実物は抱えられるほど小さくなってしまったけど、夢の中のおばあちゃんは、まだ60代で、頬がふっくらとしてた。懐かしすぎて涙が出る。
幼き日に聞いた遺言のとおり、私はおばあちゃんの宝箱の中身をすべて棺に入れて、全部持って行ってもらった。そこそこいい金属だったはずのネックレスと指輪までまるごと灰になっていたところを見ると、本当にひとつ残らず持っていったんだなと思う。
空になった宝箱は、テレビ台の上に置いている。
おばあちゃんの死に際の遺言通り、ここにたくさんの宝物を入れてくれる人と一緒にならなければならない。
横を見ると、健ちゃんが寝息を立てていた。
私が帰ってきた途端に、ネックレスを取りに行くからという連絡ひとつでやってきて、そんな気分になれないという私を無視して半ば無理やり抱いて、健やかに眠っている。
不思議なものだ、ちょっと前まではこの寝顔を見れない日は寂しくて死にそうだったのに、今はなんとも思えない。
むしろ私の悲しみに寄り添わずに、好き勝手に振る舞う姿に、呆れすら覚える。
「健ちゃん、起きて」
私は健ちゃんの肩を揺する、うーんと迷惑そうな唸り声を上げた健ちゃんを、もう一度強く揺する。
「ねぇ、起きてよ。もう始発出るから帰って」
「え…なに?まだ4時半じゃん…」
「うん、駅まで歩けば始発出るでしょ。帰って」
健ちゃんは何を言われてるか分からないというような顔で起き上がり、私が不機嫌なのだと思ったのか、キスをしようと私の頭に手を伸ばす。私が昔好きだと言った、後頭部を支えるキス。
身を捩ってその手を避けると、健ちゃんは不快そうに眉間に皺を寄せた。
「やめて、もう会わないから」
「…どういうこと?」
鬱陶しそうな返し。私のいつもの試し行動のようなものだと思ってるんだろう。私は立ち上がり、一つだけ深呼吸をして言う。
「…大事な人を亡くした時でさえ、私の心に興味が無いような人は要らない」
揺るがないように、手をしっかり拳を作って、正面から健ちゃんに立ち向かう。
「いつかは終わらないといけなかったんだよ、それが今なの」
まだ面倒くさそうな顔をしてる健ちゃんに、本気度をわかってもらわないといけない。私は押し入れからショッパーを引っ張り出して、その中に健ちゃんの私物を全て詰め込んだ。キッチンに置いてある灰皿と、忘れていったネックレス。パンツと靴下、スウェット。
今までどんなに喧嘩をしても返さなかったものたちを全部、ついでに未練も全部ぶち込んだ袋を、半ば投げ捨てるように玄関に置いて、もう一度なるべく冷静に言う。
「出てって、二度と来ないでね」
健ちゃんは諦めたように立ち上がり、いつもみたいにさっさと玄関へ。私は一応最後の別れだしなと思って玄関に見送りに行った。
いつも見送りに行かないことで、寂しいよと言っているつもりだったなぁと思い出しながら、靴を履く健ちゃんの背中を見つめる。
ありがと健ちゃん、最低だったけど、最高に好きだったよ。
言葉にしてはいけないとわかってたから、心の中でそう呟く。
靴を履いた健ちゃんが振り返り、私の顔を見て、それから初めて戸惑った顔を見せた。私が微笑み返したのが、よっぽど理解不能だったんだろう。
「…また連絡する」
「しなくていいよ、さよなら」
健ちゃんは戸惑った顔のままだったけど、グイグイと外に押し出して、笑って手を振って鍵を閉めた。愛が死んだ日にしては、決別にしては、やけにさっぱりした気分だなと思いながら部屋に戻る。
机の上に健ちゃんのタバコが置きっぱなしだったので、ゴミ箱に投げ込んでから、広くなったベットに身を投げ出して口ずさむ。

「死にたての愛を今朝、ゴミ箱に捨てた〜…」

6年もかけてはないけどね、今の私にはピッタリの歌詞だ。

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