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今までの自分の写真を捨てたことについて

今年の9月にやった個展を機に
今までのネガやパソコン上のスキャンのデータを全て捨てた。
(実際にはSNSやフォトブックを作ったクラウドには少し残っている)

日記を読み返すと、どうやら今年の3月に決めたようだ。

ずっと、この個展を作り上げるにあたって
もしこれで終わっても構わないと思っていた。
そういうつもりであの展示を作った。
だけど今までは、それでもデータを消すことまではしなかった。

自分にとって写真とは何だろう。
誰かはそれを芸術としての作品だと言い、
また誰かはそれを思い出や記録だと言う。
私にとってはどちらもしっくりこない。

私にとって、写真とは、排泄物。
私にとっての作品とは、展示。
答えはシンプルだ。
排泄物をいつまでもとっておく人がいるだろうか。
その排泄物をきれいに洗って組み合わせて
違う形に作り変えることが、私にとって、創るという行為。

そして、何よりも、私が大事にしたいのは
排泄した写真でも、作り上げた空間でもなく、
それを見にきた人と共有した、あの6日間の唯一無二の時間そのもの。
だから、完成させた物には執着はないし、
全て捨ててしまえるのだと思う。

自分のもの、自分が持っているものを愛するのは苦手だ。
だけど、それでもいいと言ってくれる人がいる。
そんな私が作った展示でも見たいのだと来てくれる人がいる。
一生懸命汗水垂らして稼いだお金を使って、
貴重な自分の時間と労力を割いて、
それでも、見に行くと思うその気持ちは、
自分の垂れ流したものより、ずっとずっと尊いと思う。
そこで話した会話や時間は、どこにも残っていない。
記憶もやがて薄れて消えていくだろう。
全てのものに終わりがあるように。
それは自然の流れで、当たり前のこと。
物質はそれを少しだけ伸ばしてくれるかもしれない。
だけど、それに、一体どれだけの価値があるだろう。
きっと物質にはそれほど意味なんてない。
それでも、私が作ったものをその場で見て、何かを感じて、
結果としてお金を出して写真を買うという気持ちに対して
ならば、その買った写真はもはや唯一無二であればいいと願う。
それがこの展示を見にきてくれた相手への
自分のできる誠意だと思いたい。

もう、今の私は、消えていくことに恐れはあまり感じない。
どうやって消えていくかの方が興味がある。

写真も然り。
何年、何十年、後に見返して
どれだけ胸を締め付けられるような素敵な写真を撮っても
私自身に、それに意味があるだろうか。
見返したいものはない。
私にとって過去はいつか過去にする必要がある。
あの時取っておけば良かったと思うかもしれない。
それも含めた未来を歩く覚悟を持っていたい。

私の願いは13歳のあの頃から
ずっと変わらないのかもしれない。
人並みに、普通を生きて、消えてゆくこと。
そしていつしか全て忘れ去られること。
何一つ、残らないで欲しい。
私が出会った人が死ぬまでの間の
記憶の片隅に少し残っている。
そして、その人の死と共に、私も完全に消える。
それだけがいい。

写真はまた、撮っていくと思う。
どう言う形であっても、排泄は循環として必要なことだから。
まだ、今の私にとっては。
展示という作品を作るかは今は分からない。
作品以外は売るつもりはない。

今回旅立っていった写真たちが
少しでも長い間、買ってくれた人の生活を彩ってくれたら
それはとても嬉しい。
でもそれは、私というものが残ることが嬉しいのではなく、
足を運んで、見て、お金を出して、飾って、彩らせている
その人自身の選択した行為が、何よりも尊いという意味。
いつでも捨ててくれたらいいと思う、
その人にとってのその写真の役目を終えた時には。

まあ、捨てたことに対して
不快な思いをした人もいたようだけれど
「かっこつけでもなんでもなく
こういう流れは、あの展示を見たら、納得できるかな」
と、誰よりも展示を何回も見にきてくれた親友が言っていたので
私は、すっきりとした気持ち。

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