自分が生きていたい世界について

久しぶりのnote。
忘れていません、
ここは自分にとっては大切な場所。

でも大切すぎて、適当なことはあまり書きたくなくて
気づいたらこんなに間が空いてしまったという。。。

最近、自分の価値観が大きく変わることがあって。
そのことを書いておきたいと思う。
これは誰かに対するカミングアウトでは無いし
マイノリティーの普及とかの為でもないし
ただ、自分の為に書いていること。

自分をマイノリティーだと思っている人は
どのくらいいるだろう。
かくいう私といえば、
多分マイノリティーをいくつも抱えた
マイノリティーの塊のような人だと思う、一般的に見れば。
でも自分ではあまり自覚がなくて、
何故多くの人と違うからと言って
それがマイノリティーと言われなければならないのか、
本当の意味では分かってなかったのだと思う。
それぐらい、人と違うことが多すぎて、
でもそうやって生きてきたからそれが普通で、
正直マイノリティーを掲げなければいけない世の中の方が嫌いだった。
40年ぐらい生きてきて、まだそこ?
まだ、わざわざそれを言わなくちゃいけない世の中なのかと
マイノリティーの人とされる方々のカミングアウトを見ていつも思っていた。

でも本当は少し違うのかもしれない。

自分が、男です、女です、鼻炎です、二重です、なんて言う必要ないし
そもそもそういうことってみんなわざわざには言わないし、
会話の流れで「昨日パスタ食べたんだよね」、ぐらいな感じで、
「あ、そうなの、私はハンバーグだった」、みたいなさ、
そんな感じに当事者たちは意外となってるのかもなって思って。
きっとカミングアウトなんて大層な気持ちは無く、
自分のことを発信してる人も多いんではないだろうか。
でもそれをわざわざカミングアウトという大ごとにしてしまう社会、怖い。

私自身は、言おうが言わまいが、そこに興味はないな、という感じ。
必要があれば言うし、必要がなければ言わない。
でも、そうだな、今まで何の気なしに
正直に伝えたことで、いい思いをしたことはあまりない。

今ここで、私が言葉にするのは
今、自分にとってそれが必要だと思ったから、というだけ。

まあ、そういう、一般的にマイノリティーといわれるもの、
たくさんあるよね、把握しきれないぐらい。

昔noteでも書いたかもしれないけど
私は自分が「うつ病」だと名前をもらった時
うつ病者として、この社会に存在していいんだと
肩の荷が少し降りたことがある。
だから、私はカテゴライズされることにあまり抵抗はなくて。
それが私の全てだとは思わない、でも、
私という人間を理解する上で、或いは表現する上で、
ある意味では本人や周りの手助けになっていることもあると思う。

例えば私は「非摘出子」から始まり、
「うつ病」でもあるし、「適応障害」でもあるし
「サバイバー」でもあり、「超能力者」と呼ばれてたこともあるし
つい最近では「アセクシャル」でもあることが発覚したりもしてる。

自分に持っていないものは誰だって理解するのは難しい。
悪気のない返答に傷ついたことはいくらでもある。
それらはいつも
「気軽に聞いてはまずいこと」と取られたし、
「良くなること」が良いとされたり
そのことで極端に嫌われることもあったし
失礼な質問を受けることだって山ほどあった。
言葉の暴力を受け続けたこともある。
人間じゃないというような目で見られることもあれば
簡単に自覚のない邪悪な気持ちで踏み込んできたりもする。

きっとその人たちは
私がそのたびに、どれほどの恐怖を覚え、どれほどがっかりして、
どれほど悲しくなって、どれほど孤独になったか知らない。

私はいつの間にか嘘をつくのが上手になって。
それはとてもひどい嘘で。
人に対してだけで無く、自分に対しても嘘をつくのが上手いという。
相手が喜ぶであろう自分を演じることが普通となって
全ては応えられない自分が悪いのだと思い込むことで
その場を、本当にその場かぎりの時間をずっと凌いで生きてきた。

だけどこの前自分がアセクシャルと知って。
そんなこと1ミリも考えたことがなかったの。
だってそんな言葉があることも知らなかったから。
知らないと言うことは、本当に何も生まれないのだと言うことを知った。

ああ、、昔感じていたあんなことも
恋愛をしても、上手くできなかったことも
なんだ、そういうことだったのか、と思った。
本当に世界はいろんな人が
グラデーションのように存在していて
こんな自分にも当てはまるカテゴリーははいくつもあって
そんなより集めで一人一人の個性があるんだなあ、と思った。

私の個性はどう見えますか。
かわいそうな感じ?勿体無い感じ?
触れたら壊れそうとか?
だけど本当に私を知っている人なら
私がどんなに弱く強く美しいのか分かるはず。
残念ながら、まだ自分ではわからないけれどね。

例えば良く知らない人がそう言う人だった時と
知り合いにそんな人がいる時はなんて言うのかな。
友達だったらその言葉は変わる?
家族や恋人がそうだったら、どう変わる?
もし人によって答えが変わると言うのなら
自分でも気付かない無関心やそれこそ邪悪が存在しているのかも。
私自身はどうだっただろう。
他人事だったマイノリティーまで降ってきて思うのは
正直そこまでフラットにできていたか自信がないな、ということ。

でもこのアセクシャルという新たなカテゴリーに嫌悪感はない。
逆にちょっとスッキリした感はある。
でも、それを知ってしまった今思うのは
自分がいかに嘘つきで、無理をして、私を演じてきたか。
そしてそれを続けるのはもう無理だと思ったこと。
私が自分にNOと言うことは
同じような人にNOと言うことと同じだと思った。
嘘をやめることで孤独に負けるかもしれない。
でも、もし、もしも、
こんなにいっぱいのマイノリティーと言われるようなものを持つ自分であっても
無関心でも、無視でも、暴力でも、干渉でもなく、
ただ、理解したいと思ってくれる人がいるのなら信じてみたい。
何も求めない、ただいるだけでいいと言ってもらえるなら
多分それ以上の幸せは私にはないと思う。
何にも応えなくていい世界、
何にも嘘をつかなくていい世界でなら生きていけるかもしれない。
ここへきてやっと、それができたらと思い始めてる。

まあ、書いておきたかったのはそんなこと。



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