オリオンの残した涙①

「必ず迎えに行くから」
 そう言って母さんはスーツケースを差し出して目を逸らした。俺はそれに気付かない振りをして言った。
「分かってる」

 ゴトン、ゴトン……。
 バスの大きな揺れにつられて自分の身体がゆらゆらと動く。その心地いいリズムに段々と視界が歪んでくる。今にも眠ってしまいそうな脳をなんとか働かせるために俺はスマートフォンから流れてくるニュースを意味もなく眺めていた。降り過ごしてしまったらいつ次のバスに乗れるのか分からない。なんとか起きていなければ。すると、息も絶え絶えに電波を拾っていたスマートフォンが「圏外」の文字と共に遂に動かなくなってしまった。
「げ、マジかよ……ありえない」
 思わず独り言が口をついた。電波すら届かなくなるとは正直思っていなかった。これはもう諦めるしかなさそうだ。大きくため息をついてスマートフォンを閉じ窓の外に目をやる。一体、このバスはどれだけの時間を走れば目的地に到着するのだろう。二時間半新幹線に乗ったあと特急に乗り換えて三時間、更にそこから一日二本しか運行してないバスに乗って一時間、まさに半日がかりだ。バスの運賃も東京ではありえないぐらい高い。これでは町の外へ行くのも一苦労だろう。こじんまりとした駅前の街を抜けてから、もう一時間はひたすら続く一本道を走り続けていた。昔観た映画みたいにこのままどこかに神隠しに遭うのではないか、そんな気さえしてくる。窓から見える景色はずっと同じで、眩しいくらいの真っ青な空と代わり映えのしない針葉樹の山、山、山、山、そしてたまに小さな集落。最初は見慣れない自然の壮大さに心が踊ったけれど、このルーティーンを三回繰り返したあたりでつまらなくなって景色を見るのをやめた。スーパーの一つも見当たらない、こんなに何もない場所で本当に人が住めるのだろうか。バスの中には老人が二、三人、顔見知りなのだろうか、当たり障りのない世間話をずっと繰り返している。
(ここはあっちとは違って平和だな。時間がゆっくり流れているみたいだ)
 そんなことを考えていた時、
「おい、酒はどうした」
 不意にあいつの口癖が耳元で聞こえたような気がした。いつもの粘っこい声。嫌だ、思い出したくない。思わず振り払うように首を振る。
「お前、俺から逃げられるとでも思っているのか?」
「こうなったのは全部お前らのせいなんだからな」
 黒い大きな影が俺の肩に手をかけ小さく、低く囁く。その口から放たれる酒の匂いが脳裏に広がる。途端に背筋が凍っていくのが分かった。なるべく意識を違うところに向けようと思うけれど上手くいかない。どこまでも、あいつがついてくるような気がして叫び出したい気持ちになった。
「次の停車駅はイチブリです。お降りのお客様はブザーでお知らせください」
 母さんから聞いていた地名がアナウンスで流れたのを聞いてはっと我に返り、その声に縋るように慌ててブザーを押した。大丈夫、ここにあいつはいない。ここはあの家じゃない。どうやらやっと着いたらしい。
 バスの中いっぱいにブザーの音が流れた瞬間、乗客が一斉に視線を俺に向けてきた。外からやってくる人間は珍しいのかもしれない。一体お前は何者なんだ、という視線になんだか悪いことをしているような気がした。俺がコソコソとあの家から逃げてきたことをみんな知っているのではないだろうか。責め立てられるのではないだろうか。見ないようにしていた後ろめたさを突きつけられたような気がして思わず、下を向いた。プシューッと音を立ててバスが停車駅に止まると、乗客の視線の中急いで車内前方へ向かった。誰も俺のことは知らない、大丈夫と言い聞かせて。バカ高い運賃を払って逃げるようにステップを降りると、開いた乗車扉の向こうからむっとした熱気が身体を一気に包み込んできた。
「はあ……」
 バスを降りると、呟きをかき消すほどの騒がしい蝉の声が俺を出迎えた。蝉の声以外の音が聞こえないからか、それは東京で聞いていたよりもずっと大きい気がした。なんとか気持ちを整えて、辺りを見回す。ばあちゃんの家はどっちだろう。
(人一人見当たらない……)
 仕方がない。スマートフォンの地図を見ながら目的地を目指そう。けれど、画面を開くと相変わらず圏外のままスマートフォンは動かない。
「はあ……」
 ここに最後に来たのはいつのことだっただろう。まだあいつがまともだった頃の筈だ。小学校に入ってからは来ていないから、七年は来ていないことになる。あの頃の記憶は曖昧だけれど、ここまで来れたのだからあとはなんとかなるだろう。
「たーかーせー!」
 大体の勘で歩き始めたところで、どこかから自分の名前を呼ぶ声がした。あれはきっとばあちゃんの声だ。
「たーかーせー!」
 遠くに小柄な体を大きく揺らしながら手を振っているばあちゃんが見えた。出迎えなんて期待もしていなかった。少し嬉しくなるのと同時に全身が緊張していく。一体どんな顔をしてばあちゃんに会えばいいのだろう。嫌われないようにちゃんとしなくちゃ。俺はばあちゃんのそばまで急いで駆け寄った。
「お久しぶりです」
 七年ぶりの挨拶はなんだか気まずくて恥ずかしくなる。照れと緊張を隠そうとすると余計にぎこちなさが増した。
「何をかしこまって言うとんや。大きなったなあ、たかせ」
 そう言ってニカッと笑うと、ばあちゃんは俺が持っていたスーツケースをひったくる。
「だ、大丈夫です、それぐらい持てます。わざわざ来てくれなくても行けたのに」
 心とは裏腹なことをついつい言ってしまう。
「何を言うとんや、まだ十二歳のくせに」
「もうすぐ十三です」
「ばあちゃんはもうすぐ六十六歳だよ」
 有無を言わせない態度なのにどこか優しい。従うしかなさそうだ。
 東京にいた時はできることは全部自分でやらねばならなかった。母さんがあいつに殴られて寝込んだ時には簡単な料理を作ったり、掃除や洗濯もした。こんな小さなスーツケース一つ持ってもらう子供扱いは長いことされてこなかった。恥ずかしくて、なのにどこかで喜んでいる自分をごまかすために会話を探す。
「この辺てコンビニとかあるんですか?」
「そんなもんは街に出んとないねえ」
「買い物とかどうしてるんですか?」
「食料は車で売りに来てくれる人がおる」
「そうなんですか」
ばあちゃんがじっと俺を見つめながら言う。
「たかせ、そんな言葉遣いはせんでええ」
「え……」
「これから一緒に住むんやから遠慮なんてせんでええんや。私はたかせのばあちゃんなんやからもっと頼ってええんやで」
 きちんとしなければと思っていた。そんな言葉が来るとは思っていなかった。ちょっとした言葉なのに、ばあちゃんの優しさがにじみ出てくるのが分かって泣き出してしまいそうになる。どう答えればいいのか分からないまま、こみ上げる涙が見えないようにばあちゃんの後ろを黙ってついて歩いた。少し長く伸びたばあちゃんの影。それはすごく頼もしく見えた。
 田園を抜けて小さなお寺の前を通りがかった時、ばあちゃんが立ち止まって振り返る。その姿を見て思い出した。この光景を俺は覚えている。昔もこうやってここに来るとばあちゃんは俺に言ったんだ。
「まずはじいちゃんに報告してき」
 ばあちゃんが優しく言う。そうだ、このお寺にじいちゃんが眠っているんだった。
「はい」
 木漏れ日に揺れる影が、苔むした石畳の道の上でまるで踊っているようだ。石畳の道を少し進むとじいちゃんのお墓はあった。じいちゃんの記憶はない。死んで十年になるから、俺が二歳の時に死んだことになる。墓石の前で手を合わせ、目を瞑ると汗が次から次へと首に流れてくるのを感じた。
(じいちゃん、たかせです。今日からばあちゃんのところで一緒に住むことになりました。母さんは……みんな元気です)
 だけどそのあとの言葉が見つからない。死人に嘘をついてどうなるのだろう。どうせお見通しだろう、じいちゃんには。
 ばあちゃんは何も聞かずに俺を引き取ってくれたと母さんは言っていた。自分の娘の家がめちゃくちゃになっていることを知ったらどんなに心配するだろう。母さんを置いて来た俺のことを怒るだろうか。そうなったら俺は一体どこに行けばいいのだろう。

 ばあちゃんの家に着くとかすかな記憶の匂いが俺を包んだ。懐かしい古い家の匂い。
「たかせが何が好きか分からんかったで、適当なもんしか作れんけどすぐご飯したるでね、ちょっと待ってな」  
「え、あ、じゃあ、手伝います」
「何を言うとんや、そんなんはばあちゃんに任せとったらええんや」
「でも……お世話になるのに……」
 ばあちゃんは俺の髪をくしゃくしゃとかき回してまたニカッと笑った。懐かしいばあちゃんの笑顔。ばあちゃんの小さくて、温かい手の感触がいつまでもおでこに残る。人に優しく触れられたのはいつ以来だろう。
「ほら、あっちでゲームでもしとき。あんたらくらいの子はみんなゲームに夢中なんやろ」
 なかなか玄関から上がれないでいる俺の背中をばあちゃんが押す。確かに周りの友達はみんなゲームに夢中だ。そういう俺だって好きだったけれど、今はゲームを持っていない。あいつに全部壊されてしまった。俺が持っているのはわずかな衣服と、教科書、そして、母さんとの連絡用に持たされたスマートフォンだけだった。
 玄関を上がって長い廊下をばあちゃんの後ろに続いて行く。
「部屋だけはいっぱいあるで、好きなところを自分の部屋に使っていいでね」
 居間の柱を眺めてまた懐かしさがこみ上げる。ここで家中走り回ったりばあちゃんとかくれんぼをしたりした。夜はみんなで庭に出てバーベキューや花火をしたりもした。心の奥深くにしまい込んだはずの家族団欒の光景が蘇る。あの頃はあいつもまともだったのに。いつからか全てが壊れてしまっていた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 居間の奥にあるじいちゃんの書斎に入ると、本のいい匂いがして、ここが一番好きだったことを思い出した。他の部屋より小さくて、秘密基地みたいなじいちゃんの書斎にいるとそれだけでワクワクした。あの頃感じていたような気持ちは一体どこへ消えてしまったのだろう。
「たかせは今もじいちゃんの書斎が好きか?」
 ばあちゃんがまたニカッと笑う。
 小さく頷く俺を見てばあちゃんが続ける。
「こんな狭いところでもええんやったら好きに使いよ。今日からたかせの部屋にしたらええ」
「え、いいんですか……?」
「男はみんなああいう場所が好きやねえ」
 分からん分からんと言いながらばあちゃんは台所へ消えて行った。
 じいちゃんの書斎は昔のままだった。奥には広い重厚な無垢の木の机が一つと椅子が一脚、右側の壁は天井まである本棚で埋め尽くされている。必要なもの以外はない殺風景な部屋。それでもここはばあちゃんにとってじいちゃんの思い出が詰まっている大事な場所だったのだろう。掃除は行き届いていてここだけは時間が止まっているみたいだ。そんな大切な場所を俺に使ってもいいと言うなんて。スーツケースを置いて椅子に座るとスマートフォンを握りしめて突っ伏した。視界が滲む。もうここは安全だ。

「お父さーーん!」
 大好きなお父さんの膝の上に飛び込むとお父さんは僕を抱きしめた。
「おう、たかせ。またおばあちゃんに一緒に遊んでもらったのか。良かったなあ」
「花札、教えてもらったよ」
「へえ、すごいなあ」
「お月様の絵だよ、見て見て」
 真っ赤なお空にまん丸のお月様が描いてある絵柄を見せるとお父さんはカタカタと震え出した。
「ほんとだなあ。お月……様の……絵だなあ……あああああ」
「お……とう……さん……?」
 どんどんと黒く大きな獣と変わっていくお父さんを見て、僕は体が強張って動けない。お父さん、どうしちゃったの。どうして変わっちゃったの。お父さんの黒い手が僕の首を絞める。
「お前がこんなものを見せるから悪いんだぞ……」
「ごめん……なさい……お父さん……ごめ……」
「もう遅い、何もかも!」
 息が、息ができない。苦しい。このまま僕は死んじゃうの……?

 遠くでばあちゃんが俺を呼ぶ声がした。はっと飛び起きる。冷や汗が頬を伝って息が荒れていた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。同じような悪夢は何度も見たことがある。ここへ来てもまだ悪夢は俺を放してはくれないみたいだ。一気にだるくなった体を起こしてなんでもない素振りで居間に向かうと、そこに並べられた夕飯を見て息を飲んだ。自分の好きなもので彩られた食卓。一目で手作りだと分かる、ばあちゃんの優しさが込められた料理の数々だった。

 カラン……。
 ビールの空き缶が足元で転がる音がした。足の踏み場もないほど転がったビールの缶やら日本酒の瓶やらを避けながら進む。充満しているアルコール臭にむせ返りそうになりながらリビングの電気をつけると、食べ終わった食器やコンビニ食品の容器が散乱したテーブルが姿を現した。
「ただいま……」
 いつも通り誰の返事もない。母さんは今日も夜の仕事でいない。あいつがいないことに少しだけほっとしたけれど、もうすぐ帰ってくる筈だ。その前に早くご飯を済ませておかなくては。俺は台所に立って買ってきた惣菜を急いで掻き込んだ。

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