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Rainbow⑰

 旋風④

 真里が劇団の練習に顔を出すのは二カ月ぶりのことだった。練習をする体育館の玄関を恐る恐る入ると、玄関奥の靴箱には、四、五人の靴が置かれていた。真里は顔を上げて、体育館内を見た。すると、琴美が柔軟体操を止めて真里のところまで走ってきた。
「真里! 来てくれたの? 練習、やって行く?」琴美の喜ぶ声とは裏腹に、その後ろにいる団員たちの冷ややかな表情が真里の目に映った。真里は自分の心臓の鼓動が耳元で鳴っているかのような感覚に驚いた。本当は練習に参加したいけれど、体が拒否反応を示している。心と体が分離しているような感覚だった。真里は早くこの場から立ち去りたいと思い始めていた。
「いや、今日は前にもらったオーディションの申込書を預けに来ただけだから」真里は琴美に紙を渡して、背を向けて帰ろうとした。そのとき、背後から男性の声が彼女を呼び止めた。
「真里先輩! 先輩はこの状態を見ても、まだ自分のことしか考えていないんですか?」それはダンスリーダーの宏太だった。真里が役者チームに異動になり、宏太が後任としてリーダーを務めることになっていた。
「ちょっと、宏太! 言い過ぎだよ。やめて!」琴美が宏太をなだめようとするも、彼はさらに真里に向かって言葉を投げかけた。
「ちょっと、宏太!言い過ぎだよ。止めて! 
「真里先輩、本当にどうしちゃったんですか? 俺が尊敬していた真里さんは、どんな時でも自分の意見をはっきりと言う人でした。だから、真里さんから副リーダーやリーダーを任された時も、真里さんがそう言うならって、真里さんが俺を頼って任せたくれたんだ。って自信が持てたのに。でも今の真里さんは、何からも逃げているだけじゃないですか!」
「宏太! もうやめて! 真里は……」琴美が言いかけたところで、真里は黙って玄関から走り出た。
「真里!」琴美が叫んでも、真里は振り向くことなく走り去った。
「宏太、これ見て」琴美は、真里が持ってきたオーディション申込用紙を宏太に渡した。
「これ、読んでみて」琴美の言葉に従い、宏太は読み上げた。
「あなたにとって、ダンスとは何ですか? ―― 私にとってダンスとは、大切な友達や仲間を笑顔にするための魔法の時間です」
読み終えると、宏太は琴美を見た。
「そう、いま真里は前進してる。必死にもがきながらね。ねえ、みんな集まって聞いてほしいことがあるの」琴美は、まだ疎らにしか集まっていない劇団員を集めミーティングを始めた。 
「みんな、いい? ニュースでも話題になっているドラァグクイーンショーの主催者、エリーシャから私たち劇団に正式なサポートの依頼が来たの」琴美は劇団員たちの顔を一瞥しながら伝えた。劇団員からは喜びと不安が入り混じった声が上がった。しかし、琴美は話を続けた。
「不安に思う気持ちはわかる。今、こんな状態だもの。だから、私から提案があるの。この劇団を一度解散します!」
「え!」という驚きの声が体育館中に響き渡った。
「ちょっと待ってください! ドラァグクイーンショーの主催者から正式な依頼が来てるんですよね?  解散したら、依頼に応えられないじゃないですか。琴美先輩、それって矛盾してませんか?」宏太が代表して質問した。
「解散して、一から作り直すの。これからドラァグクイーンショーのダンサーと役者オーディションの申込書を配るね。劇団を続けたい人は、これに参加して。真里も参加する意思を示してくれた。もちろん、私も参加する!」琴美は、真里の申込用紙を大切に握りしめた。
 以前に、琴美のケイタイにエリーシャからメールが届いていた。琴美が千夏と海の見えるカフェで話した後、エリーシャからいくつかの指示が送られてきた。その一つが「劇団の解散」だった。しかも、「真里が申込書を持ってきたら劇団を解散すること」という条件だった。エリーシャは一体何を考えているのだろうか。琴美は不安な気持ちで劇団員たちを見回した。
「分かりました。それなら、俺は書きます。参加します!」宏太が申込用紙とペンを手に取り、書き始めた。それを見て、他の劇団員も動き始めた。遅れて来た劇団員たちは何事かと琴美に尋ねたが、宏太が説明を引き受けた。真里の不在以来、宏太は以前の真里のように率先して動いてくれていた。
 琴美の嫌いな言葉は「派閥」だ。それぞれに大した差のない意志を掲げ、どんぐりの背比べをすることに何の利点があるのかさっぱり理解できない。それより、皆の意志を一つにして力を合わせれば、大きな力になると信じていた。だから、派閥にはあまり関わりたくなかった。でもリーダーとして、必要最低限のことはしていた。今回の「解散」で派閥に亀裂が入ることを琴美は密かに望んでいた。
 「ちょっと、琴美先輩。どういうことですか!」派閥を作った一人が琴美に詰め寄った。琴美は内心やれやれと思いつつ、表情には出さずに応えた。
「何? 宏太が説明した通りよ」
「解散って、リーダーの一存で決めていいわけないでしょう! みんなの合意がないまま勝手に決めないで。本当に迷惑です!」百合という女性だった。真里が来なくなってすぐに派閥を作ったのは彼女だった。琴美は百合の言葉を聞き流し、ここぞという時に切り札を出した。
「わかった。そんなに言うなら、覚悟を見せて。劇団は今、解散したの。再結成はあなたの自由。劇団は誰のものでもないのだから。あなたが一から作り出せばいいのよ。どうぞ」百合は戸惑った。予想外の返答だったからだ。琴美の行動に今まで難癖をつけてきたが、これは予想外だった。突然、劇団再結成の役を任され、自分の度量を琴美に見定められた。不利なのは明らかだった。百合は黙って琴美の前を去った。そして、派閥仲間と相談して、申込書を琴美に提出した。
 琴美は百合の申込書に書かれた「オーディションへの意気込みは?」の箇所を見た。「実力で劇団のリーダーの座を奪う」と記されていた。それは、琴美への挑戦状だった。琴美は深く息を吐き出した。さあ、舞台は整った。

 ジメジメとした夏の熱気が体育館内にこもる中、琴美は一人、涼しげな顔をしていた。(つづく)

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