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Rainbow⑪

 恵み④

 二〇〇〇年、窪田千夏は高校一年生だった。
 全国には十以上もバレエコンクールがあり、その中には奨学金(スカラシップ制度)を設けているものもある。スカラシップ制度とは、コンクールで優勝したりワークショップなどで海外バレエ学校の講師の目に留まったりすると、海外バレエ専門学校に特待生として授業料免除で留学できるシステムだ。
 千夏は四歳からバレエを始めて、数多くのコンクールに出場した。そして中学三年のときに一度、スカラシップ制度でアメリカに短期留学をしたことがある。
 バレエダンサーの寿命は短い。大体十八歳までに、有名な劇団に入り、役をもらえたらバレエリーナとして成功ルートを進んでいると言える。千夏は、短期留学中、同年代がトップを目指して競い合う姿を見て、「私も、そうならなければ」と、一層身が引き締まる思いをして帰国した。そしてもう一つ、千夏はこれまで出場していたクラシックバレエを止め、今年から自由度の増したモダンバレエやコンテンポラリーダンスに転向することにした。
 劇団への入団を目指すなら唯一無二のダンスを表現したいと、千夏自身が思ったからだ。
「次は、海外のバレエアカデミーに長期留学して、劇団からスカウトをもらいたい」千夏の目標は、より明確にバレエダンサーの道へと向けられていた。
 千夏は、モダンバレエに転向するかどうか悩んでいたとき、一つ年上で昨年一緒にアメリカ短期留学をした楠田朋樹に相談した。彼は沖縄に住んでいて、東京に住んでいる千夏は、朋樹に電話をした。朋樹は早くからモダンバレエやコンテンポラリーダンスを始めていて、どのコンクールでも、いつも海外の審査員の注目の的だった。
 彼は千夏の相談を受けて、電話口で大喜びしてくれた。「ついに神童が神を目指すんだね。だけど、モダンダンスに来るってことは、僕とライバルになるってことだからね。お互いに切磋琢磨して、世界を震撼させるダンサーになろうよ!」
 朋樹は、短期留学中も一つ年下の千夏を気遣い、良くしてくれた。千夏にとって、朋樹は頼れる先輩であり気の置けない唯一のバレエ仲間でもあった。だから、朋樹の励ましは千夏を本気にさせる足枷となった。

 転向して初めての全国バレエコンクール。高校生からは、高校と一般が混ざったカテゴリーになる。これまでよりも技術面や表現力が、よりハイレベルなものを求められる。千夏は、心の中では興奮しながらも表情では冷静さを保って、控え室で出番を待っていた。
 ――人生の分水嶺は、きっとこの出会いから始まっていたのだと、千夏は後に振り返り思った。
 演技前の控え室で、天童南乃花が千夏の元に握手を求めに来た。千夏と同い年であることや千夏のファンの一人であることを一人で勝手に語っていた。千夏はこれまでのコンクールで彼女のことを知らなかった。南乃花は小学校まで新体操の「リボン」をしていて、バレエは幼稚園のときに一度習ったがすぐに辞めたと言っていた。しかし、中学になって再びバレエを習い始めたそうだ。だから、バレエの全国コンクールに出場するのは、今回が初めてだと南乃花は言った。
「私、小学六年の頃に千夏さんの演技をたまたま動画サイトで観たんです。『バレエ界の神童』ってタイトルの動画。それ観た瞬間、体中に電気がビビッときて、この人になりたい! って思っちゃったんです。でも、クラシックバレエは、何というか……つまんなくて。だからモダンバレエを三年間してたんですけど。まさか、バレエ界の神童、千夏さんがモダンバレエに転向するとは、驚きです! 同じ部門で競えるなんて……私、感激してるんです」
 弾んだ声に、笑うと両頬に出るえくぼが人懐っこい印象を受けた。千夏は、南乃花から握手を求められたときこそ不信感を抱いたが、彼女のその印象から、私に害は無いのだろうと思い、親しさを持ち始めていた。あの演技を見るまでは。――

 調子は良かった。全力を出し切れた。千夏は、自分の表現力を微塵も疑うことはなかった。練習通りの動きが出来たと感じていたし、コーチに指摘された「大胆さ」も自分なりに追究して表現できたと、そう思っていた。千夏は舞台袖に下がると、次の演技者のダンスを観るためにそこに残った。次の演技者は、天童南乃花。彼女は、控え室で千夏に懇願していた。
「千夏さん、よかったら私のダンスを舞台袖から観ていただけませんか? 千夏さんから何かアドバイスをもらえると嬉しいです」と、えくぼを見せ真っ直ぐに千夏の目を見た。千夏は、困惑して言った。
「私から南乃花さんに、アドバイスだなんて無理ですよ。だって私はモダンに転向して今回が初めての全国の舞台なんです。逆に、私が南乃花さんからアドバイスをもらいたいくらいです」
「そんなことないですよ。千夏さんは、バレエの基礎がしっかりしてるし、表現力も昨年の大会で高得点だったじゃないですか。お願いします。舞台袖で観てください」
 結局、押し切られる形で千夏は南乃花の演技を観ることとなった。
 ――今になって思えば、演技前に初めて会った子から声を掛けられたのなんて初めてだったし、南乃花のあの笑顔は、裏を返せば「自分があなたよりも上手いのよ」という不敵な笑みで自信の表れだったのではないか。――千夏は、彼女が演技終了直前に舞台袖の私を見たときの表情がずっと頭に残っている。――
 南乃花の演技は次元を超越していた。しなやかで柔らかな指先。見たこともない独特な表現と舞台上を右往左往に走り回る大胆さ。曲のリズムを押さえるのではなく、まるで南乃花自身が曲を奏でているような軽やかなステップ。躍動する体から迸る汗は、スポットライトの光を反射して、きらりと瞬間的に輝いていた。――天使が舞い降りたのではないか。誰もがそう思わざるを得ない空気感が会場全体を包んでいた。
 ――何? あの子。
 千夏は、南乃花の演技の途中から仕切りに同じことばかり考えていた。「観てほしい」と言ったのは、あれは南乃花から千夏への宣戦布告だった。と気付くまでに時間はかからなかった。
 南乃花が最後のステップを踏んだとき、ちらりと舞台袖の千夏と目が合った。南乃花は、顎を上げ目は上から下を見るような挑発的な目だった。その顔にはあの不敵な笑みがにじみ出ていた。
 これまでの千夏なら、何食わぬ顔して拍手を送っていただろう。しかし、千夏は彼女からの裏切りにも似た行為を受けたことと、演技中のあの不敵な笑みから感じ取ったメッセージが心の闇を深くしたのだった。「南乃花が、私をバレエ界から引き摺り下ろそうとしている――」なぜだか千夏は、彼女の目を見て深く深く直感していた。コンクールの結果は、一位に朋樹、二位に南乃花、三位に千夏となった。
 今となっては悔やんでもどうしようもないことだが、
 ――もし、千夏がモダンバレエの道を選択しなければ。……
 ――もし、南乃花との出会いがあのようでなければ。……
 千夏は今も、バレエを愛していたのかも知れない。

 最悪な結果を招いたのは、自分自身の心の弱さだと千夏は十分分かっている。
 それが起きたのは、世界的に有名なモダンバレエの振付師キエナを講師に開催された夏季合宿のときだった。
 その合宿の趣旨は、「若手の才能発掘」にあった。だから参加対象者も高校生のみの対象となった。前回コンクールで上位入賞者は、自動的に参加権が与えられていたため、千夏を含め朋樹や南乃花も合宿に参加していた。合宿は一週間行われ、最終日はそれぞれに三分間の演技時間が与えられ、合宿で得た力を披露する機会が設けられていた。モダンダンスに必要とされる「自由」「想像」「感覚」は、クラシックバレエとは全く異なった表現であり、千夏が脱却しなければならない最大の課題だった。講師のキエナは、何度も何度も千夏に求めた「もっと、もっと自由に!」千夏はそれに応えようと必死に表現するも、キエナは納得している様子はない。しかし、南乃花に対しては「もっとあなたのアイデアを見せてちょうだい。斬新だわ!」と感嘆の声を何度も何度も南乃花に注いだ。
 一昨年前なら、その声を注がれていたのは南乃花ではなく、私だった。……千夏はレッスン室の片隅で水を飲みながら、キエナと南乃花のやり取りをただただ見ていた。すると、朋樹がやってきて、
「どうした? 神童。悩み事か」と、声を掛けてきた。
「もう、止めてよね、『神童』っていうのは。好きな呼ばれ方じゃないの。私は私。窪田千夏って名前がちゃんとあるの」
「僕は、自分の名前、あまり好きじゃないな。『ともき』って、一般的すぎて聞こえ映えしないじゃん」
「え、じゃあ。スティーブンとかジェームスとか?」
「なんだよ、それ。『ともき』よりはマシかもしれないけど、僕は、千夏の目からは外国人だと思われてる? それとも千夏って意外と天然だった?」
「天然って、やめてよ。そんなつもりじゃないから。朋樹さんって、顔の彫も深いし目も大きいから、そういう名前も似合いそうだなって思って。……」
「まあ、悪くはないね。でも、その名前もなんかありきたりじゃない? もっとこうみんなが呼びたくなるような名前とかないかな」
「朋樹さんは、将来の夢とかはあるんですか?」
「え? いきなり何。やっぱり千夏って、天然?」
「もう、そうじゃないです! 名前って自分では呼ばないじゃないですか。他の人から呼ばれるものだから、自分が呼ばれたい名前の方がいいと思うんです。私思うんです。心は聞いた言葉で作られる、って。だから、朋樹さんが将来どんな夢を叶えて、自分の人生の意味付けとなるような言葉を名前にしたらどうですか?」
「いいね、それ。いいね、うんうん。だとすると、僕は世界中の人を僕のダンスで笑顔にさせたり、……なんて言うか、救い人? みたいになりたい……かな?」
 千夏は、朋樹のダンスへの情熱と向き合い方を、いまの言葉で理解できた思いがした。
「いいですね! その夢。じゃあ、もし私が困ったときは助けに来てくださいね」千夏は冗談混じりに笑って朋樹を見た。朋樹も笑って千夏に言った。
「いつでも、どんなときでも、どこに居ても、助けに行くよ。君がそう望むなら」
 千夏は、先程まで空に雨雲がかかったような心模様だったのが、朋樹との会話で心が晴れやかになり、まるで雨上がりの虹の下をスキップしているような心持ちになった。千夏は、朋樹に一言だけ「ありがとう」と言って練習に戻った。
 そんな二人の様子を、南乃花は遠くから刺すような眼差しで見ていた。「なぜ、千夏をみんなで寄ってたがって、ちやほやするのだろう。なぜ私じゃないの?……」南乃花の心に溜まる棘のような感情は、朋樹にではなく、ずっと千夏に向けられていた。その感情は、南乃花の心を蝕んだ。そして、それは膨れ上がるばかりだった。
 ――いつか、千夏を私の足元に跪かせてみせる。そして、朋樹が私だけを見てくれるようになれば。――

 明日が合宿最終日となり、午後からは自主練習が組まれていた。千夏は朋樹との会話のあと、体が弾むように軽くなり、合宿中無心でダンスをしているうちに、キエナから意外な声を掛けられた。
「あなた、私の舞台で踊ってみない?」
 千夏は最初、自身の耳を疑った。あんなに「もっと自由に!」と、言われていたのに、いったいどうして? しかし、同時に感激もしていた。キエナは、この合宿が終わったらベルギーに戻り舞台稽古の準備に係ると言った。もし、本気でダンサーになりたいのなら、ベルギーにおいで。と、名刺を渡してくれた。千夏は、素直に嬉しかった。夢に一歩近づけた気がした。
 その日の合宿終了後だった。レッスン会場から寄宿舎に戻るため、千夏は踊り場が二つほどある長い外階段を降りていた。この階段は、みんなが利用するのだが、千夏はいつも自主練習をして最後まで残っていたから、帰りは一人で使うことが多かった。
 そのときも千夏は、自主練習を終え、疲れて倒れそうな体を、階段中央の手すりに掴まりながら、何とか保って降りていた。一つ目の踊り場にようやく辿り着き、あとひと息と気合いを入れて降りようとしたそのとき。千夏のすぐ後ろからバッと影が現れたと思った瞬間、その影が階段を転げ落ち、地面に着くと横たわったまま動かなくなった。千夏は全身から血の気が引くのを感じた。だが、すぐにでも誰かに助けを求めなければ。――千夏は、疲労困憊だったはずの体を素早く動かして階下まで駆け降り、横たわる影に声を掛けた。
「大丈夫ですか? ……あ!」千夏は愕然とした。横たわる影の正体は、南乃花だったのだ。
 南乃花は、額から血を流し気を失っていた。千夏は、必死に叫んだ。「誰か! 誰か来て!」
 ただならぬ声を聞きつけて、寄宿舎からコーチ陣や合宿メンバーが出てきた。血を流して倒れている南乃花にを動かさないようにコーチがその場にいる生徒みんなに伝え、救急車を呼ぶ。他のコーチが千夏に事故の様子を聞いてきたが、「私じゃないんです。私じゃないんです」と、千夏は気が動転していて、自分でも意味の分からないことを繰り返し言っていた。合宿メンバーの冷たい視線が千夏に向けられる。千夏にとってその視線は、死刑宣告に等しかった。こんなとき、朋樹さんが居てくれたらどんなに気が休まったことだろう。千夏は心の中で朋樹の言葉を反芻していた。
「いつでも助けに行くよ、君がそう望むのなら」
その言葉だけが、千夏にとって唯一の支えであった。
 朋樹は、午後から沖縄に急いで帰っていた。彼の家族に何かあったことだけ、千夏は朋樹から聞かされていた。
 千夏のその後を言えば、彼女がベルギーに行くことはなかった。付け加えて言うと、彼女がバレエを踊ることは二度となかった。
――合宿から戻ったその日、彼女は自分の足にアイスピックを突き刺した。そうでもしなければ、彼女の足は今にもステップを踏んでしまいそうになるからだ。南乃花は、今も病室でステップを踏めない日々を過ごしているというのに、私の頭の中には新しいステップの構想が次から次へと溢れ出してくる。――いったいこの世界に、誰が私のステップを見たいというのだろう。自嘲するしかなかった。
「十字架を背負って生きるのなら、もう二度と踊れない体にすればいい」ふと、そんな思いが脳裡をよぎったときには、手にアイスピックを握っていた。そして彼女は、闇の中でその鋭利な部分を自分の足に突き刺したのだ。――
 この話は、バレエ界から、一つの星が消えた日として、後々に語り継がれることとなった。

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