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Rainbow➄【note創作大賞2024/オールカテゴリ部門】

第5章 選考合宿
 ショーを三週間前にして、選考合宿が開かれた。
 ドラァグクイーンショーは、規模によってプログラムのバリエーションを構成している。小規模から中規模のショーならば、本格的な口パクで歌うリップシンクショーや観客を笑顔に包むコミカルなライブショーなどが一般的だ。しかし、今回は大規模なショーを企画している。
 エリーシャは、自身も出演しながらもショー全体の演出をこなすことで有名だ。演劇やコンサートスタイルのパフォーマンスを組み合わせて一貫したストーリーラインのプログラムを構成することを得意としている。ニュースでは、総額一億円規模のショーではないかと報道され注目を集めていた。

 選考合宿は、石垣自然の家で一週間行われることになった。この施設では、真里たち子ども劇団が練習場所として普段使用している。体育館の他に宿泊施設や芝生広場、野外炊飯場などが揃っていて合宿には好条件だ。

 総勢百名の申込者が、石垣自然の家の体育館に集合した。子ども劇団以外にも石垣島内限定でいくつかのダンス教室や合唱団に声を掛けていた。しかし、条件は十四歳以上十八歳未満とあるため、真里と琴美がこの中では最年長となる。選考する部門は、「ダンス」「アクト」「コーラス」とある。
 琴美は、入り口で選考部門の「ダンス」に〇を付け、名札ホルダーを受け取り会場内を見渡し、真里を探した。
「真里、同じダンス選考メンバーだから。よろしくね」琴美が真里の隣に座りながら、声を掛けた。
「琴美、本当にダンス選考受けるの? 『アクト』もあるじゃん。そっちの方が絶対にいいよ」琴美が自分に合わせて無理しているんじゃないのかと、真里は心配した。
「ううん、『アクト』ではなく、『ダンス』で勝負するの! そう決めたの」琴美は、清々しい顔を真里に向けた。
 真里は、琴美の顔を見てその決心を友達として尊重するべきだと感じた。
 「あ、あ、あ。えー、これから石垣島ドラァグクイーンショー、サポートメンバー選考会の開会式を行います。本日の司会を務めます私は、主催者エリーシャのマネージャーをしております、立花と申します。よろしくお願いします」マイクを通して、舞台前の端にいる白いスーツを着た小太りの男性が選考会の始まりを告げた。パラパラと拍手が起きた。
「では、早速、主催者のエリーシャに登場いただきます! みなさん、盛大な拍手で迎えましょう! さあ、どうぞ」司会の立花がいの一番に拍手を送り、会場全体に促した。会場中が拍手に包まれたとき、エリーシャが舞台前の端にある衝立から登場した。彼女の姿が見えた瞬間に、さらに大きな拍手が沸き起こった。
 エリーシャは、黒のトゥフラットシューズに鮮やかな青の七分丈スキニーパンツ。上は、白のアシンメトリーシャツで右下にスリットが入っている。長い睫毛の下には、ブルーのアイラインが引かれていて、吸い込まれそうな瞳が真里の印象に残った。真里はまじまじとエリーシャを見て、突然に声を上げた。
「あ! 青いジャケットの彼だ!」琴美が驚いて、真里を見た。真里は目を丸くして、エリーシャを見ていた。
「青いジャケットの彼って、真里が高一の時に探してた彼のこと? え? じゃ、エリーシャを見たことあるの? 私は会うの初めてなんだけど。……真里、ようやく運命の彼に出会えたね」驚く真里の横顔を見て、琴美がいたずらに言った。
「琴美、やめてよ。そういう言い方」真里は頬を少し赤らめ、体を捻った。
「楠田朋樹は、エリーシャだった」口元で呟くように真里は言った。
「え? 何」琴美が聞こえなかったというよう体と一緒に耳を真里の方に近づけてきた。真里は「なんでもない」と、琴美の体を押し返した。
 エリーシャは、全員の前に立ち今回の選考の条件やルールを説明した。

 この選考合宿は、選考する部門を三つに分けているが、二日間は基本練習として、全員が同じ練習メニューを行い、一次テストを受ける。
 エリーシャは、元々バレエダンサーをしていたことから、舞台に立つ演者は、全員がバレエ用語とバレエの基礎的な動きを覚えることを義務付けられている。
 その他のテストは、必要に応じて増やしたり減らしたりするらしい。また、例え選考から落ちても、ショーの裏方で着付けやメイク、衣装の手直しなどの仕事をしてもらうと申込書に明記されていた。
 実はエリーシャが世界から注目を浴びる所以は、ショーの華やかさだけではなかった。彼女は「救い人」としてこれまでに多くの才能人を見出してきた。その方法の一つが、現地人を多く登用することにある。彼女は、地方でのショーを行う時には、前もって現地に赴き、オーディションを行う。そして、ショーが終わるまでの間に彼らを本物のショーマンへと育成する。その手腕は、折り紙付きだ。だから、彼女は行く先々でこういうのだ「救われたいのなら、覚悟を決めなさい!」彼女のその言葉に、みなは期待を膨らませ、我こそはと立ち上がる。だが、選ばれるのは容易ではない。これまでにいくつものショーを大成功させてきたプロの目に適うのは、「本物」の原石を内に秘めているものだ。その「本物」が何なのかは、エリーシャでなければ見極めることが出来ないだろう。
 エリーシャは、説明を一通り終えて全員の顔を見渡した。そのとき、真里は一緒だけエリーシャと目が合った気がしてどきっとした。
「私からの説明は以上! あ、そうそう。今回の特任コーチを紹介して置かないとね。松本咲人と新城千夏よ!」そういうと、エリーシャは、衝立の向こうにいる二人を舞台中央に呼んだ。
 焦茶色の革ジャンを着た咲人とレオタードにスカート姿の千夏が軽やかな足運びで衝立の奥から現れた。
 真里は、再び驚いて立ち上がった。
「あ! 『ヘタクソ』の奴!」真里の声に、会場中が騒めいた。真里の脳裡には、二ヶ月前に白保海岸で見た焦茶色の革ジャンを着た男性が浮かんでいた。真里が朝の日課にしていたダンスを睨みながら見ていた彼は、海岸の砂浜に『ヘタクソ』と書いて去って行った。これは私のダンスを見て書いたに違いない。「今度会ったら、ダンスで勝負してやる!」と、真里は決めて
「ちょっと、真里! いきなり何よ?」琴美が真里の手を下に引っ張り座らせようとした。しかし、真里はその手を振り払って咲人の前に仁王立ちし、指差した。
「人の踊りを見て、『ヘタクソ』ってあり得ない! 私、あなたには負けないから! 絶対、勝ってみせる!」真里の言葉に、咲人は白保海岸で水筒を置いて帰った女の子のことを思い出した。
「あ! あのときの。……猿みたいに砂浜を飛び回っていた女の子は、君か! でもね、俺はコーチで君はまだ選ばれてすらいない。俺に勝ちたいのなら、まずは全てのテストをパスしてくれ。俺は、今の君よりも何倍も上手いんだ」咲人は、真里に目を合わせながら余裕の表情で言った。この言葉が真里を奮い立たせた。「必ず、こいつを越えてみせる!」真里は、全身に力が漲る感覚を覚えた。千夏は、それを見逃さなかった。理由はどうであれ、真里がいつもの真里に戻りつつあることを千夏は、実感した。
 咲人と真里のやり取りを、違った目で見ていたのは百合だった。「どうして真里は、いつも物事の中心にいるの? 私だって、一つ年上の真里に追いつこうと必死に練習してきた。でも真里はいつも私の先の先に行く。この選考会で、私の実力を真里に見せつけてやる!」百合は、刺すような目で真里を遠くから見つめていた。
 すると、百合の後ろから派閥の仲間が声を掛けた。
「百合さん、あっちに立ってる女のコーチは、真里さんのお母さんですよ。身内を選考会スタッフに入れてるなんて、卑怯ですよね?」その言葉は百合の正義感を奮い立たせた。百合は、手を挙げ立ち上がった。
「エリーシャさん、一つ質問があります! あそこに立ってる千夏コーチは、真里さんのお母さんですよね? 身内がスタッフに入っているのは、不公平だと思います。それともこの選考会はヤラセですか? 選んだフリをするための合宿ですか?」百合の言葉で、会場中が騒めいた。百合は、清々しい心持ちになった。
 エリーシャは、百合の近くへと歩み寄り言った。
「あら、可愛がりがありそうな子がいるわね。あなたの言い分も筋が通ってるわね。でも、ここは実力が物を言う場所よ! いいわ、これから二人のコーチに実力を見せてもらいましょう!」エリーシャは、二人を舞台上へ上がるよう指示した。それから舞台上の二人に次の指示を送った。「千夏、咲人。ジョージ・バランシンの『セレナーデ』を踊って見せて」すると千夏と咲人は、バレエのお辞儀をしてみせ、曲もない状態で踊り始めた。二人の踊りは、優雅でいて繊細な動きだった。ジャンプをしている際も足を素早く動かし静かな着地を決めたかと思えばすぐさま次の技が連動して繰り広げらる。手足も、付け根から指先までが内なる力を迸るかの如く、美しく完成されていた。二人の一糸乱れぬ踊りは、完璧だった。
 三分ほど踊ったあと、二人は舞台袖へと下がった。会場にいる誰もがその力量を確信し、魅了されていた。自然と拍手が沸き起こり、会場中を大波が堤防を砕く勢いで押し寄せてきたかのように、拍手の音が鳴り響いた。
 エリーシャは、百合の前に立ち、言った。
「身内をスタッフに入れたいのなら、どうぞ連れていらっしゃい。人手ははいくらでも必要よ。その代わり、バレエ界の神童と呼ばれた彼女よりも優れた人材を連れてくることね。役に立たないスタッフなら、あなたごと切り捨てるわ。それでもいいのなら、連れてきてちょうだい。……それともう一つ、『不公平』という言葉は、平等が約束された世界で使われる言葉よ。でも、あなたがいま参加している「ここ」では、私が女王であなたは僕(しもべ)。最初から平等なんて存在しないの。お分かり? お嬢ちゃん」エリーシャは、唇を噛みしめる百合を尻目に全体に聞こえる声で話しを続けた。
「この中で舞台に立てるのは、三十名前後。そのうち私と一緒にメインを張れるのは一人だけよ。ここでは、私が絶対的権限を持って決める! 私はプロのエンターテイナーよ。私の目に適う人材かどうかを選考する合宿だと理解してちょうだい。もし、それが嫌なら今すぐここから立ち去りなさい!」
 エリーシャの言葉に会場は静まり返った。遠くから大型客船の入港を知らせる汽笛の音が体育館内に届いた。エリーシャは、一拍手を打つと「さあ、理解したのなら荷物を部屋に置いてきなさい。三十分後に選考会を開始するわ」と、みんなに次の指示を伝えた。
 
 それぞれに荷物を持ち、配られた部屋割り表に従い散っていった。その中で真里は、舞台を振り返り先ほど踊ってみせた二人とエリーシャが談笑する姿をしばらく見ていた。琴美は真里に気付き、手を引いて体育館から出た。「もう、何考えているのよ! 百合も真里も! コーチ二人に楯突いて、信じられない!」部屋のある棟へと向かいながら琴美が言った。
「ねえ、聞いてるの? 真里」琴美は立ち止まり、真里を見て驚いた。真里の大きな瞳から溢れる一筋の涙。
「美しかった。……」真里は、それだけ言い、琴美の先を歩き出した。

***

 千夏と咲人、そしてエリーシャは、舞台前で談笑していた。
「さすがは、元神童ね! 物の見事に、合わせて来たわね。恐れ入ったわ」エリーシャは、肩で息をする千夏に言った。
「ちょっと、……息が……ハアハア。四十で、まさか『セレナーデ』を踊る……なんて」
「すごいですよ! 千夏さん。二十年のブランクを一週間で取り戻せるなんて!」咲人が興奮しながら、自分の額についた汗をタオルで拭った。
「基礎がしっかりしていれば、無駄なく動けて体力を削ることもない。そして、何より美しい。見事だったわ、お二人さん!」
 エリーシャは、二人に労いの声を掛け、先ほどまで受験生のいた体育館フロアを見渡した。割れんばかりの拍手は、エリーシャにとっても三年間ぶりの出来事で、血が滾るほどの興奮を呼び覚ました。これから始まる練習の準備で、千夏や咲人がレッスンバーの設置をしている。エリーシャは彼らを眺めながら、一週間前の出来事を思い返していた。

 選考合宿一週間前のことだった。
 千夏と史に迎えられ、エリーシャは石垣島に到着した。千夏と史が営む食堂は、空港から近くの場所にあった。三人はそこで今後のことについて、作戦を練ることにした。エリーシャの泊まる予定のホテルでもいいのではないか。と、史が提案したがエリーシャはもう一人助っ人がいて、待ち合わせに千夏たちの食堂を指定していると言っていた。「彼もここに来たがっている」と、付け足して説明した。
 エリーシャは、まず真里のことについて二人にいくつか質問した。例えば真里の得意なこととか、突然に生気を無くした経緯を分かる範囲でいいからと。エリーシャは、真里が再び生気を取り戻す糸口を、僅かな情報でも求めた。彼女には、真里の症状に思い当たる節があったのだ。「思春期心身症」それは、思春期に心身相関のバランスが崩れて引き起こされる症状だ。突然に無気力感や対人関係で過度のストレスを感じてしまう。真里は普段から少食だと千夏から聞いている。栄養士の資格を持っている千夏のことだから、家庭ではバランスの摂れた食事を少量でも与えていると思うが、それ以外は分からない。また、思春期というのは、ただでさえ心身相関が崩れやすい「ガラス張りの心」なのだ。少しの傾きで、いくらでも心身症を引き起こしやすい。
 エリーシャは、千夏と史に「思春期心身症」のことを伝えたが、もう一つ大切なことを伝えた。
「病気やその症状の名前が分かっただけで、その子のことを理解したつもりにならないで! それが一番危険なの。大切なことは、その子が今、一番苦しんでいるってこと。自分で自分を理解できない苦しさを抱えて生きてるってことを周りが理解してあげることよ」
 千夏と史は、目を合わせて二人で頷いた。エリーシャは、水を一口飲みコップをテーブルに置くと、「そろそろ来るころかしら?」と言った。耳を澄ませるエリーシャに倣い、二人も同じようにすると、遠くからバイクのマフラー音が近づいてきた。そして、店の扉が開き現れたのは一人に男の人だった。
「遅くなりました! すみません」入ってきた男は、まだ夏の盛りだというのに、焦茶色の革ジャンを着て細身だが筋肉質な体が服の上からでもはっきりと分かる体型をしていた。史は思わず自分の腹を手を捻っていた。
「紹介するわ。彼は松本咲人、いま世界のコンテンポラリーダンサーの中で彼の右に出る者はいない。今回の特任コーチとして私が呼んだの」
「どうも、松本咲人と申します。……あ、歳ですか?……二十です。え?……彼女ですか?……いえ、自分はダンス一筋でやらせてともらってるんで、いまは彼女とかそういうのは、……時間もないですし。……実家は長野にあります。親は……公務員とダンスの先生。……です」
 千夏と史が立て続けに咲人に質問をしたので、まごつきながらも咲人は出来るだけ丁寧に答えた。
「わざわざ長野から、石垣島まで来てくださったの? ありがとうございます」千夏が咲人の座る席に冷たい水を出しながら言った。
「いえ。……」と照れた仕草をする咲人を見て、エリーシャがいたずらな笑みを浮かべ言った。
「ちょうど良かったのよ。彼、三か月も前からこの島に居たから。暇していたのよ、探したいものは見つかったっていうのに。……」
「探してたものって? あ、これ当店自慢の特製プリン。今日はサービスしとくから」史が、店の冷蔵庫から瓶に入った特製プリンを取り出し、咲人の前に置いた。
「……バイク、バイクです! 年代物のSR500が見つかったので手に入れたんですよ。いい買い物が出来ました! あははは」咲人は、そう言ってコップの水を一気に飲み干した。
 千夏が再び水を注ぎ足して、「バイク、お好きなの?」と聞いた。
「はい! 大好きです」咲人は、千夏と目が合い顔を赤らめ、下を向いた。目の前にプリンとスプーンが置かれているのを見て、それらを手に取り、一気にプリンを口に掻き込んだ。
「あ、あ、あ! ゆっくり味わって食べな。自慢の特製プリンが。……」史の言葉も時すでに遅し。咲人は、空の瓶をテーブルに置いた。
 三人のやり取りを、エリーシャは微笑みながら見ていた。楽しい一か月になりそうだと、心踊る気持ちを懐かしんでいた。
「そろそろ、本題に入っていいかしら?」エリーシャが三人のやり取りを割って入った。それから、ドラァグクイーンショーまでの流れの概要とそれぞれの役割をざっと説明した。
 咲人には、以前にロサンゼルスで一緒にした仕事と同じように、全てのプログラムに関わりながら演者たちのサポートをするよう指示した。
 史には、エリーシャのマネージャーが二日後に石垣島へ到着するから、合流してショーの会場やスタッフの食事などの段取りをするよう伝えた。
 最後にエリーシャは、千夏をまっすぐに見つめて伝えた。
「あなたは、特任コーチとして受験生たちにバレエの基礎を全て叩き込んでもらうわ」
「え、特任コーチ?……バレエを教えるの? 私が?」千夏は、驚きのあまり円柱型の水差しを手から滑り落とした。それを隣にいた咲人が地面すれすれでキャッチした。史は、冷や冷やしながら千夏を見ていた。
「そう! あなたが教えるの。そのために、あなたに踊ってもらうわ。覚悟は出来ていると、あの時電話で私に伝えたわよね」千夏は、琴美とカフェで話したときに、電話でエリーシャにそう伝えたことを思い返していた。
「ええ、何でもする覚悟は出来ていたけど。……まさか、二十年近く遠ざけてきたバレエを踊るなんて夢にも思わなかった。私に出来るか、不安で仕方ない」千夏は、咲人から水差しを受け取り、史とエリーシャが座るテーブルへと移動して水差しを置いた。史は、喉の渇きを感じて、水差しを手に取り自分のコップに水を注いだ。すると、千夏が史のコップを奪い取り一気に飲み干した。
「でも、何を踊ったらいいの?」千夏は、先ほど飲み干したコップに水を注いで、テーブルに置いた。史は、喉が渇いていた。水の入ったコップに手を差し伸べたその時、エリーシャがそのコップを取り一気に飲み干し、言った。
「舞台でのテクニックが全て入った曲は、何かしら? 千夏が得意とするものよ」コップを片手にエリーシャは、史に目で水を注ぐよう指示した。エリーシャの話の熱量が上がっていると千夏は、感じていた。
「私が得意なもの。……いやいや、やっぱり踊れない」千夏は、中学生のときに踊ったバランシンの「セレナーデ」を思い出した。しかし、それは二十年のブランクがある私には到底無理! と、千夏はそれを掻き消した。
コップに入った水を一口飲み、エリーシャが千夏に聞いた。「いい、千夏。誰かを救いたいのなら、まずは自分が初めに命賭けなきゃ、ただの偽善者で終わるのよ。あなたの本気を示すための曲は、何?」
「セレナーデ」千夏の言葉に、エリーシャと咲人は目を大きくして二人同時に「それだ!」と言った。
「ジョージ・バランシンの『セレナーデ』。筋書きのないストーリーでいて、クラシックバレエの基礎が余すところなく注ぎ込まれている曲。素晴らしいわ! この曲で行きましょう! 一週間で仕上げてね」エリーシャは、水を飲み干し、コップをテーブルに置いた。それを史が手に取り、喉の渇きを潤そうと水を注ぎ飲もうとした瞬間だった。
「え、あの曲を一週間で?」千夏は史の座る前の座席に勢いよく座り込んだ。その拍子に史は持っていたコップの水を自分の体にこぼした。
「もう、何してるのよ」千夏が、近くにあったタオルをびしょ濡れの史に渡した。エリーシャは話しを続けた。
「千夏、踊れるわよね? いや、踊らなければ真里も、あなたも前に進めない。咲人、千夏を全力でサポートするのよ!」三人は、目を合わせ結束を強めた。
「こうしちゃいられない! これから練習をしましょう。咲人さん手伝ってもらえるかしら?」千夏は、咲人を見た。
「喜んで! では準備もあると思うので15時に迎えに来てもいいですか?」咲人はそう言って笑顔を千夏に向けた。「ありがとう!」と千夏は微笑み、水差しとコップをテーブルから片付けた。そして、自宅側のドアを開いて支度をしに奥へと消えた。
「さてと、私たちは、もう疲れたからホテルで休むわ。咲人、風に当たりたい気分なの。バイクでホテルまで送ってくれる?」とエリーシャは立ち上がったが、少しクラっとよろけたところを咲人が支えた。「大丈夫ですか? 無理しないでくださいよ」と咲人はエリーシャの手を引いて玄関口まで行った。エリーシャは、玄関前で史の方に振り向き、「あなたは、荷物をホテルまで届けて」と言って外へ出た。
 夏の蒸し暑い店内で、濡れたシャツを着て一人取り残された史は、滴る汗を拭うことも忘れ、唾をごくりと飲み込んだ。

***

 合宿初日は、バレエの基礎練習から始まった。受験生全員にバレエシューズが支給された。事前に申し込んだ書類から全員の足に合うサイズの靴を揃えておいたようだ。
 練習は、レベルに応じて二つに分けられた。バレエ経験者は、よりレベルの高い表現力を身に付けるために、コンテンポラリーダンサーの咲人が担当した。バレエ未経験の受験生は、千夏が担当した。体育館に設置されたバーを使って、基本の姿勢から立ち方や足の使い方。千夏は、手拍子で拍を取りながらテンポよく指示する。「音を聞いて! 足で音を掴む! はいっ、はいっ、はいっ!」すると、開始から一時間では、バレエ初心者全員が一糸乱れぬ動きで拍に合わせて足を揃えることができた。
「千夏さん、さすがです! 僕ではこんなに早く教えられないです。バレエ教室を開いた方がいいんじゃないですか?」咲人が給水タイムに、水の入ったペットボトルを千夏に渡しながら言った。
「ううん、あの子たちの素質がいいのよ。そっちはどう? めぼしい子は、いた?」千夏はタオルで汗を拭きながら、咲人に聞いた。
「それがですね、いるんですよ!」咲人は目を大きくして言った。
「どの子なの?」千夏は、咲人が指さす方を見た。
「男の子なんですけど、ほら、あの青いシャツの彼です」と、指をさしたのは子ども劇団で昨年まで真里と同じダンスメンバーをしていた宏太だった。
「彼は、才能ありですよ。ただ、まだ自分の殻を破り切れていないというか。……基礎は完璧なのに、表現力に乏しい。って感じですね」残念そうな顔をしながら咲人が水を飲む。すると、二人の後ろからエリーシャが現れた。
「まるで、昔の千夏を見ているようだわ」
「え、どういうこと?」不思議そうな顔で千夏はエリーシャを見た。
「あなたはバレエの神童の他に別のあだ名があったの知らなかった? 『精密マリオネット』よ。寸分の狂いもなく拍を踏む精密に作られたマリオネット」エリーシャは、体育館のフロアに座り一人柔軟体操を始めた。
「マリオネットって『操り人形』のことでしょ? 酷い言われ方ね」
「でも、それもクラシックをやっていたときの話。あなたがモダンバレエに転向したとき、誰もがあなたの失敗を願っていた。私を除いてね」
「ええ、それは知ってる。でも、世界に挑戦するには自分の殻を破らなきゃ!って思った。本当にバカよね、私」千夏は水を一口飲み、下を向いた。
「本当に、あなたはバカよ! 自分の足を刺すなんて。あなたがモダンバレエに転向したのは、正しかった。誰もがあなたの才能を本物だと確信していた。マリオネットは、自ら糸を切って踊り出した!って誰もがあなたに期待していた。それなのに、……バカよ」エリーシャは、淡々と柔軟体操をしながら、下を向く千夏をちらりと時折見て、話しをしていた。
 「さてと、一曲踊ってくるわ!」そう言ってエリーシャは立ち上がり、体育館中央に立ち、足の位置を整えた。右足に体重を載せ、左足は大きく後ろに広げている。上半身は両手を翼を広げるように開いている。
「『眠れる森の美女、ブルーバードのヴァリエーション』」千夏は、エリーシャの美しい立ち姿に忽ち見惚れていた。
 曲が流れ、エリーシャが踊り出す。男性パートで踊られるソロの曲だ。青い鳥を表現したその踊りは、ジャンプの時に足を何度も入れ替え、高く素早く美しく飛び上がる。休憩していた受験生たちも、休むのも忘れてエリーシャの踊りに見入っていた。エリーシャが最後のジャンプを終え、片膝を床につけて両手を広げた瞬間、大きな拍手が沸き起こった。エリーシャは、ゆっくりと立ち上がり丁寧なお辞儀をして千夏と咲人の前に戻った。そして、体育館中に聞こえる大きな声で、みんなに伝えた。
「さあ、練習はここからよ! あなた達のレベルをまだまだ上げていくわよ! 覚悟して!」エリーシャは、そう言い残して体育館を去っていった。
 千夏と咲人は、顔を見合わせて「本当に自由な人だ」と咲人が言った。「私たちの士気も上げてくれたのね」と千夏は微笑み、練習の再開を受験生たちに告げた。

***

 体育館を出たエリーシャは、タオルで鼻を押さえて自分の部屋へ急いだ。三年ぶりに人前で踊って、爽快感を感じたものの、エリーシャの全身は悲鳴を上げていた。「あと何回、先ほどのように踊れるのだろう?」と彼女は思った。
 部屋に着くと、エリーシャは、テーブルにタオルを置いた。タオルに付いた血が鮮やかな赤色に見える。病気の症状で激しい運動をすると、鼻血が出てくる。エリーシャは鞄から処方されている薬を手探りで探し、それを水で喉に流し込んだ。しばらくすれば、睡魔が襲ってくるだろう。視界が少しぼやけていたが、この症状は、今はまだ一時的なものだと彼女は理解していた。畳の上で横になり、エリーシャは目を閉じた。
 千夏と咲人が踊っている光景が、鮮明に目に焼きついている。閉じた瞼の隙間から涙が一筋零れ落ちた。エリーシャは幸福感に包まれていた。そして、自身が夢描いている未来を思った。

 ――誰もが悲しみを抱えながらも翼を広げ、大空を優雅に飛び回る夢を見る。しかし、その大半が地上で空をみつめたまま涙を流している。悲しみを抱きしめながら。
 エリーシャは、幾人もの「悲しみ」を見てきた。その中でも一番の悲しみを挙げるとしたら、千夏と南乃花の悲劇だろう。
 南乃花がエリーシャの前に現れたのは、四年前のことだった。カリフォルニアのショーとBARが一体となったオーソドックスな店で、エリーシャは歌い踊って観客たちを魅了していた。
 南乃花は、観客としてその中にいた。ショーを終え、スタッフを通して南乃花は、エリーシャに連絡先を伝えてきた。後日、エリーシャは南乃花に連絡を取り昼間のカフェで話をした。
 南乃花は、長野県で小さなバレエ教室の先生として細々とバレエを続けていると言った。彼女は、多くは語らなかった。いや、そうではなく、語る勇気が持てなかったんだと、エリーシャは感じた。ただ、彼女も千夏と同様に大空を夢見る少女のまま、地上で悲しみに暮れていることに、エリーシャは涙を流した。
 南乃花は、十四歳になるという息子をエリーシャに紹介した。それが、咲人だ。「咲人は、千夏さんみたいに精密でいて繊細に踊るんです」と南乃花は、顔をほこらばせながら話していた。エリーシャは、理解した。南乃花の心の中に微かに残る灯が何か、――を。
 遠ざかる意識の中で、エリーシャは少女のままの千夏と南乃花が手を取り合い笑う姿を思い浮かべていた。

***

 選考合宿一日目の午後の練習終わりのミーティング時、エリーシャから一次審査の基準と方法が全員に伝えられた。
「『基本の動作、表現力、リズム感』この三つをどれだけ美しく魅せることができるか。それが審査の基準よ。審査には特任コーチ二人も加わってもらうけど、最終的な判断を下すのは私。明日の審査は二人一組で行うから自分たちで組んでおいてちょうだい。それと、先に言っておくけど明日の審査では、ペアを組んだ中で、次に進めるのはどちらか一人だけと心しておくことね。誰かを蹴落としてしか、この先のステージへは進めない。既に競争は始まっているのよ」
 エリーシャの言葉に会場中が騒然とした。次のステップに進むためには、誰かを蹴落とさなければならない。しかも、自分で蹴落とす相手を選ばなければならない。何て過酷な選択をさせるのか。千夏には、皆の動揺が目に見えて分かった。受験生は、一日の練習を共にして一体感を得ていた。その受験生たちの雰囲気が変わりつつあることを感じていた。皆が周囲を見ながら、心の中で「誰となら勝てるか」と模索しているのが分かる。すると、一人の受験生が立ち上がり真里の座る前に堂々と立った。百合だった。百合は、真里を見下ろしながら言った。
「真里先輩、私と組んでください! あなたを蹴落として私が次に進みます!」真里は、隣に座る琴美と顔を見合わせた。そして、決心して立ち上がった。
「私は、あの男を超えなきゃいけないの。だから、百合には負けない!」真里は、咲人を指さして百合の挑戦を受けて立つと宣言した。二人は目を合わせ互いの闘志をぶつけ合った。この二人のやりとりを見て、他の受験生たちも二人組を組み始めた。エリーシャと咲人は高みの見物でもするように、顔に笑みを浮かべながら見ていた。
 千夏はエリーシャに小声で言う。「ちょっと酷な方法じゃない?」すると、エリーシャは当然のごとくこう言った。
「成功を手にするものは、誰かを踏み台にしなきゃ頂上まで到達できない。ここは、それを教える場なのよ」
 千夏は何も言い返せなかった。自分自身もバレエのコンクールでは一番高い頂を目指して、下を見ることなく踊っていた。だがその下には数多くの同志たちが踏み台となっていたことを、千夏は思い知らされた。競争の世界では、それが当たり前なのだ。しかし、母親としては複雑な気持ちになった。「自分の子どもが誰かを蹴落とすために踊る姿を見るなんて、耐えられるだろうか」と考え込んでいたところに、咲人が先程のエリーシャと千夏のやり取りを見ていたらしく千夏の傍に来て言った。
「あんまり考え込まない方がいいですよ。エリーシャさん、こうと決めたら曲げない人ですから。まあ、恨まれることも多いですけど彼女の本当の思いやそれを実現するためにどんな努力があるのかを知る人は、みんなこう言うんですよ。『悪魔のように試練を与え、天使の心を持って人に尽くす』ってね」
「あ! だから、『悪魔な天使』って言われているの?」千夏は、以前からエリーシャの俗称に疑問を持っていた。相反する意味が混在した言葉だったからだ。咲人の説明で、千夏はエリーシャがこれまでどんな人生を歩んできたのかを少しだけ垣間見た気がした。でも、それはきっとほんの一部で本当は私なんかでは想像もできないほどの苦しみや悲しみを経験しているのだろう。と、千夏はエリーシャの背中を見て思うのだった。

 選考合宿二日目。午前中はそれぞれの練習時間に充てられた。午後からの一次審査に向けて、会場中が張り詰めた空気に包まれていた。
「この様子だと、どんな励ましの言葉もきっと受け入れてもらえないね」千夏は体育館の隅に立ち、咲人に嘆いた。
「俺も何度か同じ場面を見てますが、千夏さんが感じているように、この時ばかりはどんな言葉も無意味です。見守りましょう、彼らの勇姿を」咲人は、床で柔軟体操をしながら受験生たちを見つめていた。
 「そう言えば……」と、咲人が言いづらそうに話しを切り出した。
「そう言えば、天童南乃花って人を知っていますか?」
 千夏は、二十年ぶりにその名前を聞き驚いた。
「咲人くん、どうして天童南乃花さんを知ってるの?」咲人は、千夏が警戒心を持って聞き返してきたことを察した。やはりエリーシャから言われたように、まだ「その時」ではなかったのかもしれないと思った。だが、話しを途中で終わるのも不自然に思い話しを続けた。
「いや、俺の知り合いのダンサーが以前に天童さんからバレエを習ったって聞いたから、千夏さんの知ってる人かな? と思っただけです。深い意味は無いですよ」自分でも苦笑いだとはっきり分かる表情を千夏に見られないよう、咲人は体を捻って柔軟体操をしているふりをした。
「知ってる。……と言いたいところだけど、詳しくは知らないの。彼女とはほんの少し、共にバレエで繋がっただけ。私はそのあとすぐに分け合ってバレエを辞めたから」千夏も床に座り柔軟体操を始めた。二人とも時間を持て余していた。
「エリーシャさんから、千夏さんのことは少しだけ聞いてます。……そのあたりのことも。すみません、勝手に」咲人は、隣で開脚する千夏に謝った。
「ううん、いいの。エリーシャが言ったのなら何か考えがあってのことでしょう。別に気にしてない。逆に、私の過去を知って困ったのは咲人さんの方じゃないの?」
千夏は微笑みを咲人に向けた。
「いや、……困ったというより、正直にいうと『残念だな』と思いました。こんなにも実力がありながら、辞めてしまうなんて残念です。あ、気を悪くしたらすみません。俺、思ったことをつい口にするタチで」
「真っ直ぐなのね! エリーシャにも同じこと言われた。でもあの時、私は自分が許せなかった。南乃花さんを階段から突き落としたのは、きっと私なんだと思う。彼女が物凄い勢いで成長していく姿を見て、正直焦りを感じていた。世界に挑戦したいという思いとは反対に、周りの実力に追いついていく自信を無くしてた。だから、無意識のうちに南乃花さんをあんな目に。……」咲人は、涙を必死に堪える千夏の横顔を見た。
 千夏は立ち上がり前に歩み、ぐうっとひと背伸びしてから咲人を振り返り微笑み向けた。
「ごめん、この話はやっぱり止めておきましょう!」その微笑みは、弱々しく淋しげだと咲人は思った。

 昼食を終え、緊張で表情が固い受験生たちが舞台前に集められた。ここで、エリーシャから一次審査の流れを教えられた。
「私は、あなたたちの実力がどれだけあるのかを見極めたいから観ることに専念するわ。指示は全て咲人が行うから、それに従うこと。いいわね!」
「はい!」と、受験生たちが声を揃えて返事をした。
 千夏は、この子たち全員を合格にしてもいいのではないかと今も思っているが、言葉にするのはやめた。エリーシャが決めたことのだ。きっと彼女は、私よりも遥か先を見据えているし、その責任や重圧もあるに違いない。千夏はそう思うことで自分を納得させた。
 ビデオカメラがスタンドに設置され、咲人が、昨日受験生に記名させて置いたエントリーシートから一組目の受験生を体育館中央に呼んだ。まずは足のポジションを指定してから、手拍子でテンポを作り指示を送った。その指示を受けて瞬時に動けるかが重要になる。一組およそ三分ほどで行われ、十組ごとに間隔を取って休憩が入る。全部で五十組ある試験だが、咲人が慣れた様子でテンポよく次々と受験生たちを誘導したり、指示を送ったりしていたのであっという間に最後の十組になった。
 咲人が受験生の名前を呼ぶ。真里と百合が立ち上がり、「よろしくお願いします」と体育館中央へと歩いた。
「じゃ、足は一番と六番で両腕は自然に広げてポーズを作って、まずはリズムを感じて。……このリズムに合わせて俺が出す指示を正確に美しく表現して」
 真里と百合は、体を正面に向け、それから両手を斜め下にしてポーズを取った。咲人は、手拍子でしばらくテンポを聴くように指示して、動き出しの所作を事前にいくつか指示した。
 「海賊、メドゥーラのヴァリエーション」だと千夏は気づいた。これは中学の時に、コンクールで踊ったことのあるヴァリエーション。三拍子で行われる軽快なステップとジャンプ、回転技もある曲だ。二人は指示された動きをテンポに合わせて正確に踊っている。まるで双子の姉妹が一緒に踊っているように千夏には見えた。真里は、百合の息遣いに合わせるように寸分違わず踊っている。真里の表情には余裕が見えた。楽しそうに踊る真里を見るのはいつぶりだろうか。千夏の目に涙が浮かんでいた。それを見たエリーシャが言った。
「真里を見ていると、あの頃のあなたを思い出すわ。見て、まるで音符の上で踊ってるみたい。彼女の体から音楽が聞こえてくる」
 千夏は、人差し指で目尻を拭い口を覆った。今にも声を出して泣いてしまいだった。そんな千夏な前に、エリーシャがタオルとペットボトルの水を置いた。千夏は、それらを受け取り気持ちを落ち着かせた。すると、エリーシャが独り言のように呟いた。
「百合は、気づいたようね。真里の本当の恐ろしさを」
 千夏は、驚いた。真里の本当の恐ろしさ? 千夏にはそれが何のことなのかさっぱり分からなかった。エリーシャは、それ以上のことは話さず真里と百合、二人の踊りを見つめていた。

 一次審査の試験が全て終わり、その場で審査結果が発表された。二分の一の確率で、落選者が決まる。皆、祈るようにエリーシャを見ていた。エリーシャは、合格者を番号で読み上げた。落胆する者、歓声を上げる者、それぞれに思いの分だけ感情を顕にしていた。
 真理と百合の番が来たとき、エリーシャの声が止まった。すると、会場中がしんと静まり返った。真里と百合に関しては、どちらも甲乙つけるにはあまりにも難しいハイレベルな踊りだった。皆が固唾を飲んでエリーシャの言葉を待った。
「五十一番!」エリーシャがそう言ったとき、歓声を上げたのは百合の仲間たちだった。百合を取り囲み喜んでいる。琴美は真里の肩を抱いていた。宏太が立ち上がってエリーシャに言った。
「おかしいです! 百合よりも真里先輩の方が上手かったじゃないですか! 見ていた皆が、きっとそう思ったはずです。もう一度、審査してください!」
「私からも! 私からもお願いします」次に立ち上がったのは、百合だった。先ほどまで百合を取り囲んで喜んでいた仲間達が百合の手を引っ張っている。百合はそれを払い除け、エリーシャの前に立った。
「一緒に踊った私からもお願いです! 真里先輩は、やっぱり私なんかが敵う相手ではなかった。エリーシャさん、お願いです。私じゃなく、真里先輩を選んでください!」そう言って、百合が頭を下げた。
「私が前に言ったこと覚えてないの? ここでは私が女王で、あなたたちは僕。全ての決定権は私にあるの!」エリーシャは、顎を突き上げ目の前の百合を見下すように見た。
「でも、……」百合はエリーシャの威圧におされ、小声になった。
「でも、何よ? あなたも落選者になりたいの? だったら二人とも落としていいのよ」
「止めて! 宏太も百合も、私のために落ちることない! これは私の実力が足りてなかっただけ。エリーシャの判断に、私は従う! だから、お願い。次のステージへ進んで、私の分まで楽しんで」真里は二人に笑顔を向けた。
「あなたの方が物分かり良さそうね。そういう事だから、二人ともお座り。落選者は、明日荷物をまとめて帰ってちょうだい。一週間後に再度連絡するわ。スタッフとして働いてもらうわよ! 申込書の契約通りにね」
 エリーシャは、最後にそう言って玄関口へと歩み、会場を後にした。
 会場に残された者達は、エリーシャの冷淡な態度に言葉を失っていた。
 千夏もその一人だった。

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