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「100分で名著」ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』所感(後編)

 100分の番組を一気見したにも関わらず、話がそれ以上に長くなってしまい、前後編に分けました。この一つ前に前編がございます。よろしければそちらからどうぞ。
 ネタバレアラートもしておきます。また、前編に書きましたとおり、本自体は読んでおりませんし、哲学を語れるほど哲学に造詣が深いわけでもないのですが、前編で結局のところ「自己の信念を表現したり、相互理解のために重要だったり、社会の概念を生み出したり変化させたりするものは言葉だ。」ということがテーマだったのではないかと思いましたので、言葉に関わる物書きを目指す私はこれを全部見て記事を書こうと思ったわけでございます。

第三回 言語は虐殺さえ引き起こす

 第二回から思ってましたが、サブタイトルがちょっと過激。でも、このサブタイトルに負けず、この第三回は本当に虐殺のお話で、なかなか過激でした。
 2007年に亡くなったローティさんが読んではいないと思いますが、第三回の冒頭では日本のSF小説が一つ紹介されています。伊藤計劃著『虐殺器官』世界で多発する虐殺テロの裏には、過去の虐殺に至るまでの言語データを分析した言語学者がいた、というお話。「虐殺には文法がある」という一説がなかなかきっつい一言ですが、彼が過去の虐殺に至るまでの言語文法、つまりどんな言葉を使うと虐殺が起こるかというルールを使って、虐殺を起こしていたという話です。
 ローティに話を戻します。曰く「他人が勝手に他者を語り直すことをやめるべきだ。」と。番組ではここで「嫁さん、酒くれ」問題が出てきますが、それはちょっと置いといて。
 前回までで「自分がどういう人間であるとか、信念であるとかを最終的に表す言葉」=ファイナル・ヴォキャブラリーというのが出てきましたが、これを他人が誰かにつけてしまう、ということはいけない。ということでしょうか。番組では、フランス人がドイツ人を差別的に呼ぶ時に使う言葉だったり、白人が黒人に使う差別用語だったりが出てきましたが、被差別にある人たちはそれを自分で名付けたわけでなく、差別する人たちが勝手に語った言葉であるということです。
 ではこれが、なぜ虐殺にまでつながるのか。ここではルワンダの例が挙げられていました。ルワンダは、かつてベルギーの植民地時代に、「ツチ」と「フツ」という二つの民族がいるとされ、現地の人の身分証明にはこの民族名が記されました。厳密にこの二つの民族に大きな違いがあったかというと、本来そうでもなく、ゆる〜く共存して民族間の結婚もあったといいます。植民地前には、民族が違うという意識がそこまで強くなかったかもしれません。この時は植民地政府の都合上、分けられただけでした。ところが独立後、多数派であったフツが少数派で反政府の運動をしている人もいたツチを虐殺するに至る事件が起こります。ツチの反政府運動グループを「まるでゴキブリのようだ」とフツの人たちが言い始めます。夜コソコソと湧き出てくるようだからと。反政府として少数派だったらどんな集団にもありそうな特徴を「ゴキブリ」と表現してしまったために「ツチの反政府のやつらはまるでゴキブリ」→「ツチはゴキブリ」→「ツチというゴキブリを害虫駆除しなければ」というとんでもないぶっ飛び論が展開され、さらにそれをフツ政府がラジオで流すということで、軍人や政府の人たちだけでなく、フツの一般市民までもがツチの虐殺に加担したということでした。恐ろしい。同じような例としてボスニア紛争も挙げられました。ここでは、宗教という既存の区別での対立が、虐殺者と被虐殺者の区別になってしまった。
 ここでの虐殺に至る「文法」とは。①「AとBにラベリングをして、人々を分ける。」(「われわれ」と「やつら」を線引きする)②「自分の方でない人々は自分と同じ本質を持っていない、つまり人ではないと定義する。相手の人間感がなくなる。」③「人ではない相手が、自分に害を及ぼすことが考えられる場合(またはそうでなくても)、どんなに残虐な方法で殺しても構わない。人でないのだから人権も何もない。相手のいうことなど理解しない。」という考えに、人を導くことだということです。言葉によって。つまりこれを意図的にルール化して行ったという小説が、冒頭の『虐殺器官』ということでしょうか。読んでみたいけれど、きついかな。
 言葉は恐ろしいという一言で片付けるには、なかなか重たい回でした。

第四回 共感によってわれわれを拡張せよ

 第三回の重たい話は、何もアフリカや東ヨーロッパだけの特殊な事項ではないのだけれど、では虐殺や差別などというものやひいては社会的対立をどう防ぎ、人々は連帯するのか、というのが第四回のテーマです。
 曰く、人権という言葉を使う前に、人権を当てはめる「われわれ」の範囲を拡張していくべきだ、と。そしてそれをするのは「文学の力」だと。
 おおお〜!     
         はい、落ち着こうか、私。失礼しました。
 なぜ、文学が「われわれ」の範囲を拡張し、言葉が間違った方に進んで起こしてしまう差別や虐殺を防ぐのか。
 曰く、「被差別者や被虐殺者などの苦痛を受けている人々は、なかなかそれを表現できず(それどころじゃない?または下手に声を上げると余計にひどくなる?)世の中の人や加害者には届かず、気持ちや状況を分かってもらえない。ただ、小説や詩人など文学を営むものは、被害者の気持ちを代弁し書き表すことができる。」と。それを読んだ人たちは、被差別などの状況にある人たちの苦痛に共感し、また自分は、小説の中で敵役として出てくる人たちのような、加害や無関心による放置をしていないかと省みることで、被差別などの状況にある人たちに目を向け、人として「われわれ」の中に組み込むことができていく。自分と同じように痛みを感じる「人」なのだと。自分と同じ「われわれ」のなかにある「人」に対して、差別や虐殺は行ってはならないという意識は、誰でも持てるということです。
 番組では、ジャーナリズムやドキュメンタリーもこの範囲に入っていましたが、個人的にはやはり詩や小説の方が効果が高い気がします。現実の世界には不確定要素(運で片付けられてしまえること)や責任転嫁できそうなこと(一方的な見方でそっちも悪いやんと言えてしまうこと)が多くて、現実を意図的にカットして編集して演出しない限り「共感」を生むのは難しいのではないかと思いました。ドキュメンタリー、好きですが、やはり意図的な編集が見え隠れします。立場を変えてみると結構見方が変わったりも。でもそれって、ちゃんとジャーナリズムとかドキュメントとか言えるのでしょうか。ちゃんと真実を偏りなく伝えていると言えるのでしょうか。その意味では、意図的に作り出す小説などの方が、伝えるべきことをしっかり伝えた上で、はじめからフィクションなので、変に立場的抵抗もなく読めると思います。
 そして、番組はなぜか「ロリータ」という小説を使った上で「無関心」を説明し、その後突然、アメリカ社会の話に飛んでいきます。お、やっとトランプ現象につながってくるか?
 90年代のアメリカは、IT産業の発展とグローバリゼーションを推進するとともに、移民の流入を容認。まぁそもそも、この時代の元々のアメリカ人多数派である白人の人たちも、アメリカ建国前の移民といえば移民ですが、まぁそこは置いといて。90年代に移民を流入させたことで、それまで工業の主な担い手だった白人の失業が増加。この状態で、ローティは恐ろしい予言を残します。
 曰く、「このままだと、不満を持った白人はこう言って怒るだろう。『誰もは私たち(白人)の苦痛に耳を傾けてくれない。政府の言うわれわれの中に、私たちは入っていない。』と。その時点において何かが決壊する。(中略)一連の制度が破綻したと判断し、投票すべき『強い男』を探し始めることを決断するだろう。」と。
 これが現実に、2016年の大統領選挙で「強い男」として投票されたトランプさんだと言うことで「トランプ現象を予言した」と言われたのですね。ただ、この時アメリカで何が起こったかというと、分断や格差の拡大であって「アメリカ・ファースト」や移民制限政策は「われわれ」を縮小したと言えるでしょう。ローティさん的には、望ましくない現象としての予言ですね。
 ローティさんの言うところの「言葉が社会を動かせる」のだとしたら、例えば昔の反戦運動の時に花の歌が歌われたり、黒人奴隷の悲劇を描いた小説が奴隷解放運動の一つの引き金になったりしたことに学ぶのであれば、この頃のアメリカで「政府の政策の煽りをくって理不尽に失業した白人」を描いた小説とか映画とかがヒットすればよかったでしょうか。それが社会的にも影響して、政府が何かしらの手を打ち、白人の人たちも「われわれ」の一部だと確かに感じさせるメッセージを伝えられていたら、トランプ現象は起きなかったということでしょうか。いや、極端にシンプルな例だとは思いますが。
 なんだか初めて「トランプ現象」の理由が分かった気がしました。ドイツで移民反対運動が起きた時と理屈は似ていますね。自分たちが皺寄せくっているのに、それを政府は解消してくれない、認識しているかさえ怪しい、というとき「アメリカ・ファースト」や「メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン」は耳障りのいい言葉、すがりたくなるような言葉だったのでしょう。そこを知らなかった当時の私や周りの人たちは、びっくらこきましたもの。
 このトランプさんという人が、言語によるバランス取りが上手かといえば、それは正直、オバマさんだと思います。実際、トランプ政権時には、アメリカが分断し、変な方に傾いたという印象を受けています。でも強烈に極端な言葉だったからこそ、当時仲間はずれ感のあった白人、失業者をはじめとする不満を持ったアメリカ人に聞こえたんでしょうね。

文学は世界を救う

 ものすごく大袈裟に解釈して、そんな言葉を言いたくなりました。小難しい論文や数式、経済学も大事ですが、きっとそれと同じくらい文学だって大事だ。たくさんの人が生きている世界なんだから、お互いの気持ちや信念を理解しあって、バランスとっていくために、文学は大いなる助けになる。そう言われた気がしました。

 前後編、合わせて9000字超えの長編になってしまいました(もうちょっとで1万字!)。難しかった〜!読み飛ばしたならぬ見飛ばした部分も、正直あります。それでも、なんとか小説以外の100分完走してみました。これを機に哲学……とまではいきません。そこまでハードルは下がっていないのです。「言葉」と「文学」という重要ワードが頻出してきたからこそでしょう。この本も、ローティさんも、分かったようなわからんような。う〜ん、ひょっとして今の哲学ってそういうもんだったりして。

何はともあれ、なっがながとお付き合いいただき、ありがとうございました。

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