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漱石好きが読む、松岡譲『憂鬱な愛人』

 松岡譲『憂鬱な愛人』新装版、復刊ドットコムより発売ありがとうございます!微力ながら投票した身として嬉しいです。

 早速予約して購入した本を、この年末年始で完走したので、読了テンションのままお薦め記事をひとつ。

 テーマは“夏目漱石ファンにとって『憂鬱な愛人』はとてもオイシイ本だぞ!”です。ええ不純です。

漱石ファンとしての前置き

 私は香日ゆら先生の漱石周辺四コマ漫画『先生と僕』と、関連漫画の『漱石とはずがたり』などから漱石に入ったクチで、主に木曜会メンバーや、漱石こと夏目金之助の学生時代の友人周りなどに興味を持って、ぽつぽつと関連書籍を漁っています。

 もし明治時代にタイムスリップしたら、漱石に熱心な手紙を送ってお返事を貰いたいな…とか、木曜会の片隅にさりげなく紛れこむには…などと妄想する程度のことは良くやります。あるあるだと思います。

 小説『憂鬱な愛人』を書いた松岡譲は夏目漱石の娘婿で、作家としての活動の他、漱石没後の夏目家の事務仕事をこなしたり、漱石についての本を書いたりしています。漱石夫人である夏目鏡子の談話を『漱石の思ひ出』としてまとめたのも松岡です。


いわゆる「破船事件」。

 その他、漱石について知ろうとすると何かとお世話になる松岡譲ですが、漱石の長女である筆子との結婚に至るまでには、世間的にスキャンダラスな経緯がありました。その内実を小説として書いたのが、『憂鬱な愛人』です。

 元々、松岡と非常に仲の良い親友であった久米正雄が先に筆子に求婚していたのですが、なんやかやあって、最終的に筆子は松岡と結婚します。そのなんやかやの失恋騒動を、久米は『破船』など複数の小説作品として発表し、同情と称賛を持って世間に迎えられました。

 代わりに、親友を裏切ることになった松岡は、10年は沈黙を守ることを自ら誓います。そして実際に何年もの黙秘期間を経て、ようやく重い口を開いたのが、この『憂鬱な愛人』です。

 その他、二人の共通の仲間である菊池寛も、「友と友の間」「神の如く弱し」などの短編小説で、この恋愛事件について第三者から語っています。

 「破船事件」とも呼ばれるこの三角関係については、久米正雄と松岡譲、それに巻き込まれた菊池寛、三者三様の視点と意見の相違があり、各作品も小説として書かれているため、結局のところ事実関係がどうなっていたのかはわかりません。

 ただ小説の発表当時から、久米派・松岡派などはいたらしく、国立国会図書館デジタルコレクションで読める菊池寛「友と友の間」では、読者が図書館の本への書き込みで激しいレスバトルを繰り広げるという傍迷惑な闘いの歴史がそのまま読めます。表に出ろとか書いてる(図書館の本で喧嘩するな)。

 国立国会図書館デジタルコレクションや、それを利用したアプリ「帝國図書館」なら無料で読めますが、私はKindleが一番読みやすいのでこれで読んでます。unlimited対象。

 久米の『破船』もデジタルコレクションで読めるのですが、私はまだ読んでいません(憂鬱な愛人読んでたら読みたくなったので、この後手をつけるつもりです)。その他、松岡が別の形で事件に触れたものとして「回想の久米・菊池」(松岡譲『漱石の印税帖』収録)などもあります。この話は自身の結婚を前におろおろする菊池寛がひたすら可愛いのでお薦めです。余談。

漱石があまり書かない夏目家のこと。

 さて松岡譲『憂鬱な愛人』ですが、序盤から上巻の中程まで、実に150ページほどかけて夏目漱石の臨終から葬式、骨揚げに至る日々が描写されています。

 漱石ファンとして読んでて嬉しいけど、一般読者は大丈夫なのか??と思わず心配したくらい私得の情報が読めてはしゃぎました。漱石の臨終や葬式については、芥川龍之介やその他の弟子たちが色々と書き残していますが、これだけじっくりと書かれた描写を読むのは初めてです。

(ちなみに久米の『破船』でも、発表当時に漱石の臨終場面などが女性読者に興味を持って迎えられたそうです(日比嘉高『プライヴァシーの誕生』より)。やはり破船も読みたい)

 ただ漱石の葬式というだけなら、他にいくらでも書かれたものがありますが、憂鬱な愛人で面白いのは、その際の夏目家の人々についていろいろと描写されていることです。

 漱石は随筆などで書斎まわりの話や、ちょっと顔を見せる家族のことは書いているのですが、基本的に家庭の奥向きのことには興味がないらしく、あまり細かいことを書いていません。日記に多少あることはあるのですが、所詮は覚書のようなものなので詳しくはない。

 そういう、漱石作品だけではわからない家庭の雰囲気が、松岡の文章から読み取れる。さらに松岡は久米と共に、漱石亡き後の夏目家で、他の若い弟子たちと交代で泊まり込みの宿直をします。夏目夫人の信頼を得て、子供たちに兄のように慕われ、避暑についていって共に遊び暮らしたり、家に住まわせてもらって書斎の虫干しをしたりもする。『憂鬱な愛人』を恋愛小説として見た時に、このあたりはもっとあっさり流してもいいのでは…と思わないでもない夏目家との関わりのディティールが、漱石好きの私にとってはことごとく「ありがたい情報……」なのです。

娘婿が書く夏目家の人々

 小説のリアリティという点で松岡が強いな…と思うのは、やはり娘婿として長年親類付き合いをしたことで、夏目家の人々の描写がくっきりとしているところです(夏目家のまだ幼い長男・次男は合体したのか一人省略されたのか、小説中では一人になっていますが)。

 特に、作中常に存在感を見せる夏目夫人の描写は出色だと思います。これまで他の弟子などに語られてきた「面倒見のいい姉御肌で迷信深い」鏡子夫人から、一歩踏み込んだものになっている。夫人には迷惑もかけられ、時にその片腕のように働いてもきた松岡だからこそ書ける、精細な裏付けのある夏目鏡子像です。

 漱石とは気が合わず、何かと距離を置いていた「矢来の伯父さん」こと漱石の兄もなかなかにいいキャラクターです。漱石亡き後の夏目家で日向ぼっこなどしていたり、芝居が好きで好きで乙女のようにソワソワしたり、下巻ではここぞの場面でちょっと活躍したりもする。彼は漱石からはだいぶけちょんけちょんに書かれがちなので、他の視点からするとこういう人なんだなぁ、とちょっとホッとしました。

 そして本作のヒロインである筆子(作中では涼子)。決して美人ではないとかパッとしないとか、松岡は最後のとある場面まで彼女の外見的な美しさを認めないんですが、とか言いつつこの描写の山ぜんぶノロケに聞こえますけど〜??というくらい憂いを帯びた優しげな、しかし芯の強いところもあるお嬢さんとして描かれている。いやほんと、これ、夫婦として10年近く暮らした上での描写なんですよね…?と思うと、ひたすらのろけられているし、そののろけ方に裏付けがありすぎる……とお腹いっぱいなりました。

 読みながら、筆子(涼子)の自信のなさや気の弱さは、やはり幼い頃に、精神の調子を崩していた漱石からつらく当たられたことも関係あるのかな…と思ったり(次女は正反対の性格なので、生来のものも強そうですが)。高名な父を持つ総領娘として、相談できる身近な人がいない悩みをもらす彼女に、そうだよなぁ…としみじみしたり。

恋愛小説としての『憂鬱な愛人』

 正直な話、読みながら「この小説…漱石周辺好きとしては面白いしありがたいけど…一般的に面白いのか…?」と判断がつかなくなっていたんですが、上巻の終盤、演劇の休憩時間に三木(久米)が、秋山(松岡)の隣の席で、夏目夫人から求婚の返事を聞かされる緊張感のある場面から主人公の感情が劇的に動き、お、面白いぞこれ!大丈夫面白い!と謎の安心と興奮をしました。

 下巻ではいよいよヒロインとの心も近づいて、「れ、恋愛小説だこれー!」と今さらびっくりするようなロマンスの場面(夜の舟漕ぎのところ、いいですよね…)が二山ほどあり、終盤に向けて盛り上がりを見せます。

 とにかく主人公の秋山(松岡)は「いやそんなんじゃなくて、僕は恋愛小説のような事件とは無関係で、ただ三木(久米)に振り回されてしかたなく…いや違う違うそんなこと思ってるはずが…」と消極的に傍観者たろうとしているのですが、まあ結婚という結果から逆算して書いているのもあるとはいえ、どう考えてもヒロインに惹かれとるやんけ 早く認めなさいよ!!と下巻の中程までせっつくはめになり、しかしだからこそ認めてからの燃え上がり方はいやいやいや早い!ちょっと!熱ッッッ!!!という情熱ぶりで面白い。

 それでもロマンスにどっぷり浸りきるわけでもなく、彼女の涙で濡れた着物の胸元を、人に見られないように火鉢にかがみ込んで乾かすなど、地味に生活感のあるディティールがとても良かったです。

 またそれと時を同じくして、ライバルの三木(久米)もやらかしにやらかしを重ねる連続コンボを見せてきて、「どうしてそんな負け戦で地雷に直撃するの!??!?」と読んでいて混乱に頭を抱えるジェットコースター読書体験ができます。三木はすごいぞ。

 三木の「負けの決まっている試合でさらにダメ押しの地雷ダンスを重ねていく」衝撃は一人で抱えきれるものではなく、読みながらしばしばTwitterで悲鳴休憩を挟みました。

 その時のツイートはこんな感じ→「お前お前お前 そんな両手を挙げて地雷に飛び込むやつがあるか!!!!!!」「いやいやアカンアカンそれはアカンで三木!!!」「聞き手になってる秋山(松岡)の反応が恐ろしくて手が止まったくらいなんですが、秋山も「正気か????」みたいなこと地の文で返してたので爆笑」「神の如く弱し!!!!!!!!」「三木、マジで言ってんのか????正気か?????」「百歩譲って秋山にそれを言うのまではともかく、鏡子と筆子にこのタイミングで言うつもりだったの 正気か???????」「憂鬱な愛人、三木の存在があまりにエンターテイメント」

 いやほんと面白かったです。ライバルのやらかしによりジェットコースターとなる恋愛小説、なかなかないですよ……(最終的にずっと「フォローできねえ……」と言っていました)(菊池寛の「友と友の間」読んだ時も同じこと言ってた)

長いけどとにかく読んで欲しい

 上下巻あわせて1200ページ超の大部ですし、本のお値段もその分張りますが、文字組みなど含めて読みやすいので、ぜひいろんな人に読んで欲しいです。

 漱石周辺や破船事件に興味のある方は、その好奇心を満たすものとして。そうでない方にも、終盤のジェットコースターのような読書体験と三木のすごさを味わえるものとして……。



 私は折を見て『破船』に手をつけようと思います。ジェットコースターしたあたりの久米側の言い分が知りたい…。