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河内長野 楊枝産業史10

戦後以降の爪楊枝業界では、河内長野の業者、およびその協力業者において、様々な技術革新が進められます。

例えば、先に紹介した「四角い軸をプレスして丸軸に近づける方法」。
これは、昭和35年ころまで用いられていた方法ですが、軸の両端を尖らせて中心を切断することで2本を作るという工程のため、切断部が荒れるという課題が。
これを改善するため、業界ではグラインダー(砥石)により切断し、断面を滑らかにするという手法を編み出しましたが、今度は黒く焦げて汚れて見えるという問題が浮上。
この改善策として編み出されたのが、焦げの下に二本の溝を切って汚れからデザインに見せるという手法で、現在でも主流の「コケシ」はこれにより生まれています。

このような中で、昭和46年にはこれまで手作業のため製造工程上ボトルネックになっていた「丸軸の切断」も機械化され、製造効率が向上。同年には、業界初の公的団体「大阪府妻楊枝組合」が発足、さらに北海道の丸軸製造業者らも加わって全国妻楊枝組合も発足するなど、業界としての組織化も進みます。

この連載のテーマである「河内長野が爪楊枝の本場になるまでの歴史」といえば、ここが完結なのかもしれません。

その後、昭和48年の変動相場制への移行による急激な円高の進行で、白樺楊枝の国際的な競争力は低下します。以降、安価な海外製品との競合、小売業による直接調達など国内の流通経路の変化もあって、現在に至るまで河内長野の爪楊枝業界は厳しい環境が続いています。

では、河内長野の爪楊枝業界は消えてしまったのか、というとそうではありません。
困難と言われた黒文字楊枝の製造機械化、包装の機械化等の技術革新を続けながら、各社が海外調達も柔軟に取り入れ、行楽・お弁当用品・オーラルケア用品等、隣接業界への拡大など、各社が爪楊枝を軸に深化、拡大を図り、今でも河内長野の地は10社以上の爪楊枝関連企業が集積し、依然として国内唯一の本場としての地位を維持しています。

科学的、経済的な分析ではないかもしれませんが、業界のある方が常々言っています。
「業界の発足以降、ずっと様々な革新に取り組んできたという風土」があり、「1本1円にも満たない非常に安価な商材と向き合い続けてきた忍耐力」を培ってきたのが、河内長野の爪楊枝業界だそうです。

今回取り扱ってきたテーマ【河内長野市が爪楊枝の本場になっていくまで】はいったん終了します。

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