河内長野 楊枝産業史7
大正15年8月、三重県の東洋妻楊枝(株)の稲葉氏により、河内長野での平楊枝の機械生産のために設立された「広栄社」(操業開始はその少し前の大正14年)。
昭和2年には、「御大典記念優良品審査大会」において、機械製の平楊枝を出展して名誉大賞金牌を受賞するなど、海外から機械を買って初めて機械製の楊枝を作ったことが評価されていることが伺えます。
ちにみに、平楊枝は「文化楊枝」と呼称されていたのですが、これは当時の「舶来品」に「文化」とつけていた慣習によるものです。
たとえば、「文化包丁」なんかそうですね。
とはいえ、平楊枝は折れやすさなどもあってなかなか市場を取るには至らず、むしろ日本の消費者には従来から馴染みのある丸楊枝が受け入れられる状況。
そのため、せっかく輸入した機械を生かしてどう丸楊枝に近づけるか、の試行錯誤が続きます。
初期の段階で採られていた手法は、まず作りやすい角楊枝(軸の形状がマッチのようなイメージ)を製造、その角楊枝を、丸みのある溝の切られたローラーで圧縮して丸みを帯びさせる、というもの(画像はその機械)。
ちなみにこの機械、だいたい昭和2~10年頃まで使用されていたもの。
用途も全て同じなのに、わざわざそんな一手間をかけなければ売れないほど、人の生活様式を変えるというのは困難なんですね…
さて、ここから戦時下に差し掛かりますが、爪楊枝業界はどうなっていったのか、続きは次回。
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