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妻飯〜僕を変えた妻のご飯〜

妻と出会う前

十七年前。
高校一年生の冬に、父が亡くなった。

父は絵に描いたような昭和な男で、良くも悪くも豪快だった。口癖は「大きい男になれ」で、曲がった事が大嫌いな男だった。エピソードを語りだしたらキリがないので割愛するが、単純に見た目だけで言えば次の通りだ。

「角刈り・サングラス・ヒゲ・迷彩タンクトップ・筋肉隆々」

兎にも角にも、強くて大きい父に憧れていた。

そして父は、僕に野球という存在を教えてくれた。
物心ついた頃からボールに触れさせ、「プロ野球選手になる」という夢を抱かせてくれたのだが、教え方も昭和だった。
あまりにも時代錯誤だった為ここでは詳しく書けないが、その甲斐あって僕は上達した。父と二人三脚で上達した。
今振り返ると当時の僕は、野球と父という両翼で空高く飛んでいたのだろう。

そんな中、片翼である父を失った。
片翼を失い上手に飛べなくなると、野球という残された翼もあっという間に粉々になった。

高校一年生の冬、僕は地の底で「自分」を見失った。

長い長い自分探しはそこから始まった。
プロ野球選手という夢は潰えたが、父の言っていた大きい男になるため自分自身の様々な可能性を模索した。
クラスメイトの前でひょうきんなことを言ったり、ひょうきんなことをやったり。
今まで見ないふりをしてきた教科書を開いてみたり、勉強を頑張ってみたり。

またもやその甲斐あって、コミュニケーション能力と学力が発達し、高校卒業後には誰もが知っている大手電力会社に入社することができた。
家族も含め、周りは皆大いに喜んでくれた。

「これで父のように、大きくて強い男になれる」

僕はそう信じて疑わなかった。
自分探しはここで終わるかと思われたが、現実はそう甘くはなかった。

社会や会社は想像以上に厳しく、ふと周りを見渡してみれば、驚くほど優秀な人や、信じられないほど怖い人で溢れかえっていた。特に怖い人はたくさんいた。
今思えば、その怖い人たちも僕のためを思って指導してくれていたのだが、当時はとにかく「怒られないようにしなきゃ……」や「ミスしないようにしなきゃ……」と必要以上に萎縮していた。
その理由は、父の影響だ。いや、父のせいだ。

野球で三振したりエラーをすると、父は怖いくらいに、怖かった。それはもうとにかく怖かった。僕にとっては「地震・雷・火事・親父」ではない。「親父・親父・親父・親父」だ。
だからこそ、人から怒られることに人一倍怯えていた。簡単に言えばトラウマだ。
今でも大きな物音がすると、必要以上に驚いてしまう。それこそ箸が転んだだけでも大きなリアクションを取ってしまう。
「箸が転んでもおかしい年頃」なら微笑ましいが、「箸が転んだらビビる中年」は笑えない。

常に何かに怯えながら過ごす毎日。大きな男とは程遠い自分に気がついた時、僕は大手電力会社を退職した。
退職理由は「お笑い芸人になる」ためだ。

「仕事では自信を持てなかったが、今までひょうきんなことで笑いを取ってきたから、笑いに対してなら自信を持てるはず。さらに一生安泰な会社を辞めて、茨の道を突き進むという道を選ぶことで、父のように大きくて強い男になれるだろう」

僕はそう信じて疑わなかった。
自分探しはやっと終わるかと思われたが、もちろん現実は甘くはなかった。


結果、お笑い芸人として一秒も売れることはなかった。


色々な経験をさせてもらったが、結果が全ての世界で何も残すことができなかった。周りは自分よりも遥かに才能に恵まれている上に、努力を惜しまない人たちばかりだった。その人たちは「絶対に自分が一番面白い」という確固たる自信を持っていた。だからこそ、周りになんと言われようとブレないスタイルがあった。
一方僕は、「スベったらどうしよう……」「ネタが伝わらなかったら怖い……」といつかのように縮こまりながら過ごしていた。

結局、何も変わっていなかったのだ。

そして何も変わることができず、何も残すことができなった代わりに、大切なものをなくしていることに気がついた。

お金、時間、自信…。

蒲田の漫画喫茶でその事実に気がついた時、今までにない速度で心臓が動くほど焦りを覚えたが、時すでに遅し。
呆然としているとパックの締め切り時間が迫っていたので、大急ぎで身支度を始めた。百数十円の延長料金を支払いたくないがために。

「父ちゃん、大きい男ってなんだよ……」

妻との出会い

二十代後半の平均年収と平均預金を余裕で下回っていた当時の僕は、とあるきっかけで妻(もちろん当時は妻ではありませんが、妻と表現させてください)と出会った。

そこで奇跡が起こった。

地位も名誉も財産もない自称お笑い芸人の僕を、妻は好いてくれたのだ。
誤解のないように記しておくが、僕は見た目も優れていない。今までの人生は「優しそう」と「芝犬みたい」としか言われたことがない。
そんな僕を、妻は好いてくれた。
好いてくれた上に、付き合ってくれた。

とにかく驚いた。
自分で言うものなんだが、二十代後半で再び地の底に沈んだ男だ。そんな男の何が良くて選んでくれたのか。周りからも「あんな男やめておきなよ」と言われていることを人づてに聞いていた。
そもそも妻は見た目も綺麗で、しっかり仕事もして、性格も良くて人望もある。どう考えても僕より良い男を選べる立場にあった。

にも関わらず僕を選んでくれた。
後々妻に「なんで俺を選んでくれたの?」と聞いたところ、「一緒にいてこんなに楽しい人はじめてだったから」と答えてくれた。嬉しい。
だからこそ、強く思った。

「妻の選択を、正解にしたい」

そう決めてからは早かった。
お笑い芸人としての道は諦め、一般企業に就職した。もちろん妻のためだ。
妻は「せっかく頑張っていたのに本当にいいの?」と驚いていたが、少しの後悔もなかった。

妻の目が間違っていなかったことを証明するために。
そして、妻に恩返しをするために。

そう決めて新しいスタートを切ったのだが、そこから先も妻に驚かされる状況が待っていた。

妻飯

付き合ってから一年と一ヶ月。
妻と結婚をした。
入籍日は父の命日。その提案は妻からしてくれた。

「お父さん喜んでくれると嬉しいね」

この出来事からも分かる通り、妻の愛はとにかく深かった。
その事実に気がついたのは、結婚前に同棲を始めた頃だった。

同棲を始めると、妻は毎日美味しいお弁当を作ってくれた。
晴れの日でも、雨の日でも、仲の良い日でも、大喧嘩をした日でも。
共働きにも関わらず、妻は美味しいお弁当を作ってくれた。
どれもこれも本当に美味しかった。

ガパオライス、生姜焼き、カツ丼、たまご焼き、おにぎり、ハンバーグ……。

妻が作ってくれる美味しいお弁当が元気をくれた。だから毎日頑張れた。
その感謝を伝えると妻は当たり前のようにこう返してきた。

「私のお母さんも作ってくれていたから」

自分の母からもらった愛情を、そのまま僕へ。
言葉にならない感情と感動に挟まれる中、学生時代、僕の母も毎日お弁当を作ってくれていたことを思い出した。
そして、その凄さを今さらになって知った。
母に対しても猛烈な感謝と懺悔の念を抱いたので、急いでお礼の連絡をした。

そう。妻のおかげで僕の世界は大きく変わったのだ。

これまで生まれてこなかった母に対する感謝の気持ちも、妻のおかげで気がつくことができたのだ。
今までだったら斜に構えて伝えてこなかった頑固な気持ちも、妻の愛が溶かしてくれた。
嵐さんの歌詞を借りれば「あのかたくなで、意地っ張りな僕を変えた妻の飯」だ。

しかし、そこでまた新たな感情が生まれてきた。

「妻はこんなにすごいことをしているのに、この偉業を僕だけに留めてしまって良いのか……?」

毎日美味しいご飯を作ってくれる。
このすごさを分かっていないのは、他の誰でもない、妻だ。

それを分かってもらおうと毎日感謝を伝えた。
「本当にありがとう」「本当にすごい」「本当に尊敬する」
しかし、「本当に」を酷使する僕のボキャブラリーでは何も伝えることができなかった。
妻は素知らぬ顔で毎日お弁当を作り続けてくれていた。

「何とかしてこの偉業を分かってもらわねば……」
そこで考えた。

「もう、SNSに頼ろう」

元来、SNSが嫌いだった。
いいねだの映えるだのバズるだの。始めたら楽しいことは分かっていたが、ひねくれ者の僕はそれらの類を昔から避けていた。2019年の1月まで、LINEを除く全SNSを頑なにやってこなかった。周りにどれだけ薦められようが、やってこなかった。
だが、背に腹は変えられない。妻のすごさを伝えるためだったら手段を選ばない。やはりここでも「あのかたくなで、意地っ張りな僕を変えた妻の飯」だ。

ただ、普通に始めてしまっては面白みがない。
どうせならサプライズ要素を加えるため、妻に内緒で始めることに決めた。

「妻に内緒で進行して、気がついたら人気を集めて、こっそり書籍化なんてことになったら妻は喜ぶぞ……」

そんな思惑を胸に、早速Twitterで「妻飯」を開始した。
記念すべき初投稿がこちら。

初っ端から向きを間違える大チョンボ。
しかしながらこの一歩で勢いづいた僕は、そこから投稿を続けた。

最終的には100いいねを超える投稿が生まれるほど、妻のご飯に対する賞賛の声が集まっていた。


さらにはTwitterだけではなく、アメブロも開始。

ここでも妻のご飯が評価され、アメブロ内のトピックに挙げられ、一万を超えるアクセスを獲得。

しかし、冷静に考えたところ「書籍化なんてできっこない」ことに気がつく。
現実と向き合った末、新たな目標を立ち上げる。

それは「妻に内緒で始めた【妻飯】の九ヶ月に及ぶ軌跡を動画にまとめて、結婚式でサプライズムービーとして流す」ことだ。

妻飯を始めたのが2019年1月。
ちょうどその年の10月に結婚式を行うことを決めていたので、余興として妻が喜ぶサプライズを考えていたところに降って湧いた名アイデア。
そうと決まれば、一人で素材を集め、一人で録音し、一人で編集。
妻に怪しまれながらも計画を進行したその結果は……。

大成功。

会場内で飛び交う「美味しそう」「綺麗」「すごい」の声。
そしてその動画の主役は、目を見開いて驚いている。
全てを見終えた後、妻は大きな目をさらに大きくして、僕にこう言った。

「あなた、すごい」

違うんだよ、妻ちゃん。
本当にすごいのはあなたなんだよ。

どんな時でも毎日ご飯を作ってくれて。
どんな時でも僕のことを気にしてくれて。
どんな時でも家族のことを考えてくれて。

いつも、ありがとう。

僕を選んでくれて、変えてくれて、ありがとう。


妻飯 結婚式後〜現在

いかにも終わりそうな雰囲気だったが、結婚式後も「妻飯」を継続している。
あれからInstagramやYouTubeやTikTokも開設し、手を替え品を替え継続している。
そう考えると、2019年1月から「妻飯」を開始したので、かれこれ四年以上はやっていることになる。
その間に大きく変わったことと言えば、娘が二人産まれたことだ。

女の子を熱望していた妻にとって、これ以上ない親孝行をしてくれた娘二人にはすで頭が上がらない。そして信じられないほど可愛い。とにかく可愛い。ああ可愛い。
可愛いエピソードを語りだしたらキリがないので割愛するが、単純に見た目だけで言えば次の通りだ。

「可愛い・可愛い・可愛い・可愛い・可愛い」

さらにもう一つ大きな変化と言えば、「妻の実家をリフォームして二世帯住宅で同居」していることだ。そこには妻の理想とも言える広いキッチンが入っている。
そういった状況の中、娘たちが寝静まった後に二人でしっぽり飲んでいると妻は必ずこう言う。

「私にとってこんな良い環境で暮らせるのはあなたのおかげだよ」

なので、僕は必ずこう言い返す。

「何度も言うけど、この環境を作ったのは妻ちゃんだよ」

お金も地位も名誉も、文字通り何もなかった僕を見出してくれたのは、他の誰でもない、妻だ。
あの時誰からも相手にされていなかった僕を選び、「何よりも妻と娘を大切にして、とにかく家族を愛する、妻の理想を叶えるために妻の実家をリフォームして二世帯住宅に住む男」にしてくれたのは妻なのだ。
まさか僕もそんな男になれるとは思わなかった。ゆくゆくは「煩悩にまみれる自分勝手な男」になると思っていたくらいだ。

しかし、妻の愛情は全てを溶かし包んでくれた上に、本当の僕を教えてくれた。


結局僕は、大きい男になれる器ではなかったのだ。


家族と一緒に過ごすことが何よりも楽しく、一緒に美味しいご飯を食べることが何よりも幸せな男なのだ。それ以上のことを何も望まないつまらない男なのだ。プロ野球選手になれる器量も技術も、売れっ子お笑い芸人になれる度胸と才能も、持ち合わせていない男だったのだ。

そして、その事実を知った今、自分の人生に居心地の良さを覚えている。

周りになんと言われようと、家族との時間を大切にする。妻と出会う前だったら、何時であろうと誘いの連絡があればすぐに家を出た。それが「大きい男」になれるチャンスの一つだと思っていた。
しかし今では、休みだろうと何時だろうと、お誘いを断ることは多々ある。とにかく家族と一緒にいたいからだ。
「付き合いが悪くなった」「つまらなくなった」「小さくなった」と言われようが、動じることはない。

なにせ今の僕には妻と娘たちという両翼がいる。
自分の足でしっかり立てているかは分からないが、可愛い両翼のおかげで高く飛べている。

これまで野球を辞めたことを、大手電力会社を辞めたことを、後悔したことは数えきれないほどあった。
しかし、今では全くそんなことは考えない。

なぜなら、妻と出会えたからだ。

野球を続けていたら、大手電力会社で働いていたら、お笑い芸人として売れていたら、妻には出会えていなかった。
妻のおかげで、僕は自分の人生を肯定することができている。

だからこそ、その全ての源である妻にこれからも「妻ちゃんはすごいんだよ」と伝えたい。伝えるために「妻飯」を続けよう。
そしていつか娘たちが大きくなった時、こっそりと「妻飯」を見せてみよう。
娘たちは目を見開きながら、こう言うに違いない。


「お母さんって、すごいんだね!」


それが今の僕の、小さくも大きな夢である。



おまけ 
数々の美味しい妻飯



あぁ、お腹すいた……。

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