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幼少期から”つまごん”が誕生するまで

こんにちは!
現役ママライバーのつまごんです。

なぜポコチャで現役にこだわり配信し続けているのか考えた時に、ずっとずっと昔の私の生きてきた小さい頃からの思いとかもあるんだろうなって初めて幼少期の頃からつまごん誕生までを書いてみることにしました。

つまごんのことをご存知の方もそうでない方も、つまごんがどんな人生を送ってきたのか?なぜライバーになったのか?などがお分かりいただけるかと思います。

初公開✩.*˚
飽きないように写真を入れてご紹介していくので、良かったら読んでみてください^^

■幼少期のつまごん

私の両親は、鹿児島の農業や家畜で生計を立てていた家系で育ち小学校へは歩いて2時間もかかり、お弁当には道中で二十円のイナゴの佃煮を買いこれがある日はご馳走らしく、休みの日にはもちろん家業の手伝うのが普通で牛の散歩をしに出かけても日が暮れれば街灯のない山道を歩いて帰ってくる….そんな幼少期だったそうです。

山で育った経験から私も同じように自然の楽しさの中で育ててもらい、今振り返っても幸せな人生を送らせてくれたと思っています。

社宅の団地住まいでしたが、ベランダ下には家庭菜園が許され根菜やチューリップなどのお花も咲いていて、メロン・スイカ・トマト・大根・人参・なすなど収穫できました。

それだけではなく、週末は海に釣りに出かけたり、山に山菜を採りにいったりキャンプやアスレチックと自然と活発な子になりました。

おかげで近所にある公園で筍を取って来たり山菜を採って来たり、山に捨てても生きていける子とよく冗談を言われてました。

■好きなことも辛い体験で蓋しちゃった思春期

活発で考えるより先に行動するタイプだったのであんまり人がやりたがらない事も人前に立つことも率先してやってました。小学生では学級委員に立候補し低学年のクラスで行事など取りまとめるのも自分の好きなことだなって気付く初めてのきっかけでした。

だけど、小学3、4年生の時に私を含めた6人の女の子の仲良しグループ中で3対3、2対4、悪い時には1対5でいじめのループが起き無視やすれ違いざまにボソッと悪口を言われたり、嘲笑われる感じ、本当に辛かったです。今思うとたった数日〜数週間くらいの出来事かと思いますが、とても辛い体験だったことを覚えています。

そんな自信をなくすような経験と思春期の成長で自分自身の見た目も気にするようになり中学生や高校生では複数人で絡んだり人前に立つことを避け、自分一人でも結果を出せるようなスポーツやテニスに没頭する体育会系女子になりました。

テニスはスクールに行っている人より良い結果を出せることはありましたが、話は出来ても心を開けるのは1人2人くらいで自分の意見も相手に伝えるのが苦手でしたから強さで言えば中高と部長候補に名前が上がりましたが人間性として選ばれることはなかったです。(と、思ってますw)

だけど、めっちゃ楽しかったですよー❣️🎾
右は、最後の引退試合☺️
後輩にとってもらった思い出の写真✨

人と話し合ったり意見するのが苦手なので、ダブルスをするとめちゃくちゃワンプレーになりますw
あれもこれも全部自分が🎾拾ってやる精神で、いつも独り言が怖いと言われてました🤣
独り言の口癖は「絶対とれる!とる!」でした。

■思春期が終わる前の家族の突然死

父のような保育士になりたかったけど…  

私が幼い頃、何人かのお友達家族とキャンプや潮干狩りに家族ぐるみで出かけることがありましたが、私の父は山育ちで自然に詳しく兄弟も多かったので子供の扱いにとても慣れていました。
だからか、私の父の周りにはいつだって子供が集まりお友達は私の車に乗りたがりました。

そんな自慢の父でしたが、中学校高校と私は思春期で毛嫌いするようになり、まだ思春期が終わってない短大入学後すぐに父は突然亡くなりました。

父はパワーシャベルとか設計する仕事でしたが、進路を決める時に父のような子供の好奇心を大切にできる保育士になりたくて、思春期で全然父と話せなかった自分もこれからは変えていきたいと父と向き合おうとしている矢先でした。
自分の人生でこんなに身近な人が、それも父が亡くなるなんてことはありえないし想像もできないから絶対生き返ってみんなの笑い話になるはず、そう思ってました。

現実は、残酷でそうも行かずもっと父と話したかったなとかいろいろ後悔しましたが、父が亡くなったことでどれだけの信頼や人望があったのか、知る機会にもなりました。
大阪の病院で一時治療を受けましたが、鹿児島からたくさんの友人や親戚がすぐに駆けつけてくれました。父が亡くなってから13年以上が経ちますが今でも毎月親族ではないのに花を届けてくれる家族同然の人もいるし、今では、自分が死ぬ時に父のように多くはなくても大切に思ってくれている人がいたら幸せな死に方だなとこの頃から、自分の死に方とか死ぬまでにしたいことをよく考えるようになりました。

父の死から学んだ歪んだ思い

父の死でたくさんの後悔もしたし、今あるものに感謝をしたり、平和な日常がどれほど幸せで感謝すべきこのなのか人生で一番感じましたが、父の突然の死に方はこうも思わせました。

それは、
「あなたが居なくても会社は潰れない。」

不思議に感じたのは、父が亡くなっても会社は潰れませんでした。
じゃぁなんでこんなに父一人が精神的にも体力的にも背負わなければならなかったのかなと悔しい気持ちにもなりました。

父の死は、自己管理もあると思いますが、ストレスによる過労だと思っています。

父は、何十個も会社のために特許をとるような開発をしながらも、会社に長くお世話になったからと亡くなる前に英語も話せない父でしたが海外の単身赴任の話を引き受けるような人でした。父の性格は、頼りにされると自分のことは後回し、海外出張も断れず視察の出張や英語を勉強したり、思春期で愛想の悪い私にでさえイギリスに一緒に来てくれないかと弱音を吐くほど不安だった事は皮肉なことに亡くなってから気づきました。

本当に自分の家族に起こっていることなのか突然すぎてお葬式をしても実感はわかないし、ただいままでにないくらい父のことを考え後悔や思い出を家族でいっぱい話しました。

話せば話すほど、考えれば考えるほど本当にこうなるまで助けられなかったのか、悔やむばかりです。そんな気持ちの行き着くところは、会社のためにとか誰かのために無理しちゃいけないってことでした。

短大の学業もちょっと怠けがちになり、保育士になっても年々感じる自分に足りない部分、一生懸命頑張っていても陰口を聞いてしまったり、子育て経験のある先生と自分を比べてしまったり、私だからこそできることがあると先生としてのやりがいを感じていたはずなのに辛いことが重なり自分じゃなくても代わりはいると喪失感で退職後は鬱になっていました。

鬱を克服できても自分じゃないとできない仕事ではなく、誰がやってもできるような淡々とした仕事を選ぶようになり、しんどい時は自分のせいで周りに迷惑をかけてはいけないと休みがち、そもそも私の代わりはいくらでもいると、自分の存在価値も適当でいいやって感じで生きていました。

人はいつか死ぬし、私一人が会社に行かなくても会社は潰れないし、なんとかなる…自分の存在はその程度なんだろうなって充実はしていましたが悲観的な思いがどうしても拭えない20代でした。

今二人の子供を育てながら思うことは、いつか保育士として子供たちのそばで人生を送ることも私の夢の一つです。
ただこの時と違う思いは、子供たちに素敵な夢や希望を見せたり語ったりできる先生になりたいことです。
今は、夢や希望を見せたり語ったりできる人になるために、つまごんはライブ配信で色々なチャレンジをしながら無謀な夢も叶えて見せたいと思っています。それがポコチャならできると信じています。

■自分の人生のトラウマだった「人」に救われた30代

人生を変えたのはライブ配信

自分自身に自信が持てなかったり自分の存在価値を認識できていなかったり、ずっと人を避けてきたし、これからも家族や時々愚痴り合える数人の友人以外大して関わらないようにしていく人生だと思っていました。

でも、変えることができました。

父の死で感じた歪んだ考えも、ライブ配信は私じゃないとダメなんだって自分自身の存在に今まで感じたことのない存在意義を持てました。

それは少しずつ自分への自信にれ変わっていきました。

ワンオペで自分を見失いかけていた時に出会ったライブ配信で、多分知っていたけど忘れていた「人は人でしか癒せないこともある」ということを思い出させてくれました。

どんどん世の中の技術が進歩し、人と人の接する機会が減ったとしても人間が生きる上で大切なことはー

それは、人間として生まれたなら、生まれた時からと言わなくても、死ぬまでに人生を分かち合える人がいることなんじゃないだろうか。それが恋人や夫婦、兄弟、仕事仲間、家族、友人かもしれない。

一人でもいいけど、楽しいことも嬉しいことも悲しんだり悩んだり怒りも、誰かといることで生まれる感情なんだろうなって、人間らしいなって思いました。

その生き方を選ばせてくれたのがライブ配信。
ライブ配信と出会ったからこそつまごんが生まれました。

ライブ配信との出会いや、ポコチャで変わった自分自身についてはこちらの記事でご紹介させていただきます。

たくさんここまで読んでくれてありがとうございます!

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