うさぎ (1)

足首の傷をまた掻いてしまった。革靴が擦れた所為でできた傷だった。
かさぶたを剥ぎ、薄い皮膜を掻き毟る。皮膚片が粉になって床に落ちた。右手中指と爪の間に液が付着するのを感じ、はたと手を止め見ると既に傷跡は醜く広がって、奥にぽつりと赤い血が滲んでいた。
その赤を見ると、暮子はまたうさぎのことを思い出した。暮子を悩ませるうさぎ。
透明な軟膏を塗り、戸棚からバンドエイドを出し傷口に当てがう。身体を丸め、暮子はまた眠った。

これは彼女のうさぎの話だ。

暮子は3歳のある朝、大きな枝を拾った。それは家の前の桜の木の根元に落ちていたものだった。暮子の母親は娘がそれを拾ったことを不思議に思ったが、朝はいつも慌ただしかったこともあり、枝を握る暮子をそのまま車に乗せた。
幼稚園に着くと、先生は暮子の枝を見、次に母親を見た。笑顔のままで眉尻を下げ、あくまで職務上の申し訳なさそうな声音を作る。
「ごめんなさいね、危ないからこういったものは、持ち込んじゃいけないようになっているんです。もし良かったら、お母さんが預かってもらえませんか?」
暮子の母親は子供が枝を持つことが、本来危ないことであるということを失念していた。暮子は車の中でも枝を胸の前で握るだけで、振り回す素振りも見せなかった。
「そうなんですね、そうですよね。暮ちゃん、枝は危ないって。おうち帰ったら遊ぼう?ママ預かっておくから。」
しかし暮子はきっぱりと首を横にふった。ぐずる様子も見せず、しっかりと枝を握っていた。先生と母親は不思議そうに顔を見合わせた。先生が今度は暮子と視線を合わせ、口を開く。
「くれこちゃん、どうして枝を持ってきたのかな」
暮子は表情を変えず答えた。

「うさぎを、やっつける」

うさぎを?先生と母親は揃って首を傾げた。目の前の少女は内気で夢見がちで、しつけの行き届いた子どもだったはずだ。先生たちが日頃手を焼いているような腕白な男児たちとは違う。時たま空想を饒舌に喋ることはあっても、喚いたり暴れたりとは無縁な暮子は、そもそも棒をどのように扱えば「やっつけ」られるのか知っているのだろうか。ふたりの大人は、笑った。きっとまた何かの遊びなのね。

「暮ちゃん、昨日もののけ姫見てたもんね。でもだめ、お友達の目に刺さったりしたら、危ないでしょう。ママ持っておくから。ね。先生、ごめんなさいもう行かないと。うちで話しますから。暮子も悪気はないんですよ。なりきりごっこが好きで。暮ちゃんごめんね、ママお仕事行くね。」

そう言って母親はスーツ姿に枝を携え、小走りで車の方へと行ってしまった。結局その日は何事もなく、暮子はいつものように教室で絵を描いて、いつものようにゆっくりゆっくり給食を食べ、母親が仕事から戻るまでは延長保育の子供たちが集められた部屋で本を読んでいた。

「暮ちゃん、今朝の枝のことなんだけど、どうしてうさぎをやっつけたかったの?ねこちゃんとかは好きでしょう?うさぎやっつけたらかわいそうだよ。」

その夜母親は、夕飯の席で暮子にそう尋ねた。父親はまだ帰宅していなかった。一人っ子の暮子は喧嘩を知らないまま育ち、たまに公園に連れて行ってもいつの間にか他の子供に遊び道具を取られて隅の方にいるような子どもだった。彼女の中に暴力性の萌芽はなかったはずだ。母親は心配だった。張り合いのないくらい手のかからない子ではあるけど、自分たちの知らないところでストレスを感じていたのだろうか。しかし暮子は少し不満げな顔をして、小さなフォークでシチューのじゃがいもを崩しながら言った。

「だってうさぎが来てから、みんなうさぎ見に行くんだもん。うさぎ可愛い可愛いって、言うんだもん」

母親は表情を緩ませた。なんだ、可愛らしい、殻にこもりがちな子どもだと思っていたけれど、お友達と遊びたかったんだ、この子はうさぎじゃなくて自分と遊んでほしかっただけだ。よかった、大丈夫だ。母親は暮子を叱らなかった。うさぎ、最近来たばかりだからみんな触りたいんだよ。そのうちお友達と遊べるようになるよ。暮ちゃんも、明日はうさちゃん触りに行ってみたら。結局、暮子がうさぎを「やっつける」ことはなかった。母親の心配は杞憂だったのだ。

物心ついた頃には、暮子はよくこの話を聞かされた。母親というものは、往々にして子どもの幼い頃のエピソードをいくつか、話のタネに持っているものだ。彼女らは自分の娘や息子の可笑しな失敗やいじらしい発言を覚えていて、正月には親戚の前で酒の肴にする。暮子の母親も例に漏れず、お気に入りのエピソードがいくつかあった。言語習得が早かったこと、初めてチョコレートを食べた時にあまりの美味しさにしばらく放心していたこと、それらと並べてこの「うさぎ」の話が語られた。微笑ましい思い出話として。暮子自身ははっきりと当時のことを記憶してはいない。しかし、母親から語って聞かされる度に、暮子の心には違和感があった。状況を細部まで思い出すことはできなくても、それは確かなことだった。違う。違うんだよお母さん、わたしは、本当にうさぎが、憎らしかったんだよ。友達と遊びたかったんじゃなくて、うさぎが憎かったんだ。あのときうさぎに、何かを奪われたんだよ。しかし暮子がその違和感を、母親の前で口に出すことはなかった。

うさぎの話への違和感は、刺のように残って少しずつ暮子の中で育っていった。一度当時の憎しみを思い出すと、暮子は、何か苦しいことがある度にその正体がうさぎであるように感じた。白いあのうさぎが現れて、嘲笑うように跳ねるような気がするのだ。

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