成天

 「飛べますか?」
 雲ひとつない青空のてっぺんに太陽が辿り着いた頃、ビルの屋上に現れた制服姿の女の子は老人にそう声をかけた。

「今日もダメそうだねえ」
 枯葉色の肌に深い皺を刻んだ男は半笑いでそう返すと、首に巻いていた白タオルを少しだけ顔に当てる。半ば無意識のうちに行われた汗を拭う動きは、しかし老化の影響もあってか干からびた皮膚を擦るだけのものに終始した。

 対照的に大粒の汗をかいている少女は、気にせず会話を続ける。
「飛べませんか」
 少しだけ失望の色が含まれたその声に、老人はああと頷くほかなかった。

「最近はさっぱりだねえ。天気も体調もなーんも関係なくて、ただただ飛べない。まるでお天道様に翼をもがれたみてえだ」
「そんなこと、お天道様がするわけないじゃないですか」
 むっとして言い返した少女は、紺のスカートについたポケットから小さな長方形の物体を取り出した。朱と藍の二色の細い糸で丁寧に編まれたそれは勿論、晴天祈願のお守りである。

「もし本当に飛ばせたくないなら、大雨や霰でも降らせておけばいいでしょう。お天道様はみんなに空を飛んでほしいから、自分と同じ高さまでやってきてほしいから、こんな最高の天気にしてくださっているんです」
「……するってえと、お嬢ちゃんは快晴に目がくらんでおサボりなすってるわけか」
 老人がニヤリとしながら披露した推理は的中していたようで、少女は短い黒髪を撫でながら苦笑いを浮かべる。可愛さと可笑しさの混じったその様子を微笑ましく思った老人も目を細め、和やかな雰囲気が辺りを包む。

 やがて、近くの山の方からチャイムの音が風に乗ってやってきた。それが合図であったかのように老人は大きく伸びをして、それから少女を諭すような口調で話しだした。
「昼休みももう終わりみてえだし、お嬢ちゃんもそろそろ学校に戻りな。こっちはこっちで、なんとか飛べるようにもうひと頑張りしてみるからよ」

 言われた方は不満げに小さく頬を膨らませたが、すぐに諦めたように口を尖らせながらそれに応じた。
「ちゃんと羽を伸ばしてくださいよ。私もこれから大嫌いな数学の勉強に励みますので、約束ですよ」
 そいつぁ偉いや。老人は朗らかな笑みを浮かべ、そして少女に別れを告げた。


 太陽が西の方角へと身を沈め、つられて空が茜色に染まるなか、少女は一人家路を辿っていた。
  肩から提げた学生鞄の中が空っぽなこともあって、その足取りはダンスを踊るように軽やかなものだった。
 
 誰もいない小道を歩いていた少女は、ふとその足をぴたりと止めた。続けて、その視線は自然と中空へ向けられる。やや遅れて遠くから聴こえてきたのは、水風船が弾けたような破裂音。

「叶ったのですね」
 呟いたのち、その小さく青白い両の手を叩き、少女は祝福の音色を奏でる。
 その音は次第に大きくなりながら街中を巡り、やがて透き通った夕焼けの空へと溶けていった。

 


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