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誤ってすむならいくらでも

 桐谷遥さんがあまりにもかっこよすぎて(注1)同期の人に興奮気味に話したら、向こうは苦笑いを浮かべていた。たはー……。
注1……1:31辺りのビブラートかけた「は」が好きすぎて、好きすぎる。

 
 例によって嘘の話をする。俺は嘘をつくのが下手だが、下手の横好きというやつなのでこればっかりは仕方がない。精一杯の虚構をあげるので受け取ってほしい。代金はまけとくよ。

 一昨日、つまり2024年4月19日(金)の夜、副都心線で幽霊を見た。

 その時の俺は待ちに待った休日を目前にしてもなお気分が上向きにならず、政権支持率のような(注1)グラフを描きながら帰路を漫然と辿っていた。
注1……この例えは不穏当なものだ。忘れるように。

 原因はいくつかあったが、最も大きなものは会社における自らの扱いに関するあれこれであることは間違いないように思われる。配属早々にこの男の無能さが上長以下部署の方々に露見したことで簡単な作業すら与えられず、PC画面を睨みながら漫然と終業時刻を待つだけの給料泥棒(23)が誕生していた。俺を雇う金でルンバでも買った方がまだ社内環境の改善に貢献できるはずだが、それは新卒バリアが切れてからのお楽しみということらしかった(注2)。おかげで転職サイトと向き合うモチベが湧いてくる。
注2……イギリスのシングルマザーが書いたとあるファンタジー小説で似たような設定があった気がした。だからなんですかミスター・話の腰キラー?

 ともかく、そうした精神状態が自らを心霊現象の当事者たらしめた可能性は高い。「普通に」生きていれば幽霊なんて視界に入らない。霊感の強さを武器にできたのは一昔前のテレビタレントかメンヘラくらいのものだし、現在はそれぞれオタクアピールと病みかわコンテンツの摂取に勤しんでいるため、残ったのはVと声優が絡む謎番組を気味の悪い笑みを浮かべながら視聴するようなただの心が弱い人間だけだ。

 話が脱線した。

 それは、列車が千川を過ぎて小竹向原へ——この辺りは副都心線と有楽町線の共通区間となっている――向かっている時だった。
 ドアのそばには、俺と長身の女が向かい合って立っていた。スーツ姿の女の容姿はよく覚えていない。ただ、何か音楽を聴いていたようで、そばの壁に体重をかけながら瞠目し、しばしばリズミカルに頭を上下動させていたのだけは印象に残っている。イヤホンを会社に忘れた俺はそんなことはできず、最近twitterで知り合った女と空虚なメッセージの交換をしながら、晩飯をどうするか考えることに脳のリソースの大部分を割いていた。昼は牛肉だったので夜は魚を食べるべきか、などと栄養バランスを考慮する去勢された思考を展開し、しかし魚は値が張ることを思い出して躊躇していた。スパルタの奴隷だってもう少し主体的な思想を有していたに相違ない。

 列車が駅に入っていき、そして減速していく。俺がいたのは二両目とかなり前の車両だったため、車窓からはホームの景色がゆっくりとした速度で過ぎ去っていく。その移り変わりも次第にゆるやかになり、あと数秒で停止しようかというその時、彼と目が合った。
 白シャツにカーキ色のズボン、そして黒いリュック。サラリーマンとしても大学生としても通用しそうなほど普遍的な出で立ちのその男は、けれどその濁った瞳と視線を交錯させた瞬間、本来見えてはならない存在であると分かった。

 不愉快な微動ののちにドアが開き、人の入れ替わりが発生する。元々乗降者の多い駅ではあるが、その日は特に多かった。乗り込んでくる人々にドア傍から奥の方へと押しやられ、ようやく隅に自分のスペースを確保したころには列車は再び動き出そうとしていた。

 俺の隣には、先ほど目が合ってしまった幽霊が立っていた。毛穴の開いた肌を貼りつけた顔や醜い脂肪のついた首筋など、部分的に観察すれば普遍的な実在性を感じられるものの、総体として捉えるとやはり霊であることには疑いの余地はなかった。向こうもこちらの考えを察しているのか不愉快そうな視線を向けてきたが、所詮死人だ。そのまま黙殺していると、やがて向こうも諦めたようにそっぽを向いてしまった。いや、近くの席に座っていた女子高生の肢体を性欲のこもった眼で舐めまわすように見つめていただけかもしれない。いずれにせよ、老け顔で活力の乏しい男と意地の張り合いをするよりはずっと有意義なことだ。

 そうこうしているうちに、最寄り駅に到着した。
 あれだけいた乗客は、前の駅でごっそり消えてしまっていた。死人の性的な眼差しを浴びていた件の女子高生も既に降りていた。
 ゆったりとした足取りでドアの前に移動して開くのを待っていると、横から声がした。聞き覚えのない声だったが、それが幽霊のものであることはすぐに分かった。
「早くこっちに来いよ」
 ポーン、と柔らかい電子音とともに扉が開く。毎日なんの変化もない薄暗くて無機質なホームをぼんやりと眺めながら、そっと口を動かす。
「そんな勇気はないので」

 買ったばかりで履き慣れない靴に違和感を覚えながらホームへ降り、数歩進んだところで二つのドアが閉まった。走り去っていく電車を見つめながら、俺は永久にその機会を逸してしまったことを感じていた。


A. これは何?
Q. さあ?



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