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光り続けたあなたへ(映画『トラぺジウム』感想+α)

 映画→原作→映画二回目の流れで楽しませていただき、感想に似たなにかを書きたくなったのでそうさせていただく。書くだけならタダだし。
 正直なところ、「東ゆうがサイコパス」だの「ホラー映画すぎる」だのネット特有の巨大主語大喜利の題材として消費されてしまっているのが我慢ならない。未見の人でも興味を持って(注1)上映回数が減らされまくっている映画館へ足を運ぶような文章になるかはさておき、一定量の誠実さを煮詰めてcsv出力していきたい。

注1……「酷評を見て逆に観に行きたくなった」というツイートが流れてきたが、お前も大喜利したいだけだろと思った。


はじめに

 映画『トラぺジウム』の主人公は東ゆうであり、彼女にフォーカスする形で物語が展開していくという説明に異を唱える人はほぼ皆無だろう。実際、「他のキャラが薄い」だったり「周囲の人間が操り人形めいている」といった類の批判は観測しているし、俺自身その見立ては正しいと思っている。
 だが、こうした構図が原作に忠実であるかというと、必ずしもそうではない。特に「北」の亀井美嘉とかいう女(注2)の詳細については、原作では初登場時に情報開示が行われているし、彼女が東へと向ける少々重たい感情の起源についてもなんとなく察しが付くようになっている。この改変は二時間足らずという上映時間を意識している側面もあるが、結果的に映画版では彼女の過去について終盤まで伏せることで、東ゆうという一人の少女の物語を際立たたせている。
 つまるところ、この映画は全体を通して東ゆうというアイドルに憧れた人間の挑戦と挫折を描いた物語であり、もっと言うと観客は映画を通してこの少女の本質について知る旅をすることになる(注3) 。よって、『ワンダーエッグ・プライオリティ』とかいう謎の尻切れトンボアニメを世に送り出したあのCloverWorksが手掛けたこのアニメ映画について語るには、東ゆうについて語る必要があると言えるだろう。

注2……正直この子好き。小学校の同級生に似てるので。
注3……スケールの小さすぎるフリーレン? 


①過去を語らない東

 先述したように、映画版においては亀井の過去描写がオミットされているが、主人公であり視点人物でもある東の過去も同様に削られている。
 例えば、東がカナダに約五年間住んでいたことについては、大河くるみへの自己紹介や爺琉城でのボランティアの際に瀟洒な英語を用いたのみで、現地での暮らしぶりやユニークな体験などは殆ど語られることはない。原作ではcoffeeの発音に関して一席ぶつシーンがあるし、大河と亀井の会話の中では東がたまにカナダの思い出を喋っていることが示されている。
 他にも、東とは保育園の頃からの付き合いのミッツ―と喋るシーンはカットされているため、彼女の小学校時代について知っている人物は母親を除けば亀井以外登場しない。その亀井ですらも東との思い出を語るのは終盤に入ってからであり、それ以前は同級生という以外の情報があまりない。

 一応、東がアイドルを憧れるきっかけとそれからの挫折の日々についてはOPで描かれてはいる。ただ、冒頭に流れるたった数分間の曲とそのバックの絵から観客がそのすべてを一度に読み取れるかというとノーであり、製作スタッフもそれくらい分かっている(はず)。視聴者が誰もついていけず声優が考察を披露しだすアニメが過去にあったような気もするが、映画という一時停止もスキップもできないコンテンツでは伝えたいことは平易な表現を心掛けるはずなので、少なくとも東の過去については物語内での優先順位は低めであったと考えられる。

 アイドルとしての個性を求めている東が自らの過去を武器とせず、多くを語らない理由は、共犯者である工藤シンジとの会話の中で明らかにされていく。テスト勉強してないとぼやきながら人知れず努力を重ねて高得点を取る人間を「かっこいい」と評する東にとって、オーディションに落ちまくった過去を明かすことは「かっこ悪い」 (注4) 。俺はこういう足掻きまくる人間が好きなので、初見時に「いやお前最高に輝いてるだろ!」と応援上映を開始しそうになったのだが、ともかく東はそうした考えのまま終盤まで過去と向き合わないし、過去を内包した人物である亀井の本心にも気づかない。アイドルとして未来で輝く自分を想像しながらの彼女の冒険は、そうして危うさを孕んだまま進んでいく。
 
注4……カフェ前のシーン、『ぼっち・ざ・ろっく!』の自販機前のシーンを意識したのかと思ったが、本心を語った虹夏ちゃんとダサさをひた隠しにした東の対比で胸がキュッとなった。


②東ゆうとアイドル

  作中において、星とアイドルは繰り返し結び付けられる。星に惹かれる工藤と同様に、東はステージの上で輝くアイドルを目指すだけでなく、「光っている子はみんなアイドルになるべき」とまで言ってのけるほど愛している。星、というキーワードで、ふとこんな台詞を思い出した。

私が宇宙船以外なにひとつ愛せないという逸材だからさ

『プラネテス』2巻より

 『プラネテス』において主人公のハチマキと似て非なる存在として活躍するロックスミスは、この通り宇宙船にすべてを捧げるほどの天才であり、事故で部下や基地を吹き飛ばそうがお構いなしだ。そんな破綻した性格の彼だが、「いい仕事をする」ので失態も許されてしまう。すべてを凌駕するほどの圧倒的才能、それがロックスミスだ。

 では、東はどうだろう。カナダにいたころテレビ番組で偶然見たアイドルの輝きに目を奪われ、自らもアイドルとして輝こうと決意した彼女。目的を達成するために各地から光る少女を集め、回りくどすぎる計画を立ててテレビ進出まで果たした彼女は、同時にステージでの口パクを求める事務所の社長には反発するほどアイドルという職業を神聖化しきっている(注5)。
 序盤から中盤終わりにかけて狂気とも思える熱量でアイドルにすべてを懸ける東だが、残念なことにロックスミスとは違って彼女は天才ではない。SNSでは他の三人に比べて地味だし、ファンレターも彼女だけ少ない。歌唱力については比較的優位なはずだが、フェスステージでは音程を外してしまい、ネットで心無い声を浴びせられる。

 より悲劇的なことに、彼女自身も自らの取り柄が「なんもない」と思ってしまっている。東西南北としてテレビ出演を始めた最初期のモノローグでは、他の三人の長所について語りつつも自らのことには一言も触れない。そもそも、オーディションを通らない彼女が自分以外の「光」の助けを借りてアイドルになろうというのが彼女の計画の出発点であり、事務所所属後に味わう劣等感もある程度覚悟はしていたはずだ。

 中盤、SNSでダミーマイクの件を暴露する文章を送信する寸前で消す一幕があるが、これは「光れない」自らの無力さを痛感する象徴的なシーンだ。ばらしたところで炎上するだけであることは明白だし、なにより他の三人がいなくてはアイドルを続けられないことは自身が一番理解している。東西南北の「東」という地位に必死にしがみつこうとする彼女は、ただ四人で楽しく過ごしたい他の三人と対立し、孤立を深めていってしまう。

届かない星の眩しさでもう何も見えないくせに

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』より

 アイドル活動を始めてもなお、彼女は貪欲に上を目指そうとする。より大きな仕事、大きな箱でのライブなど、東の目標(≠東西南北の目標)はまだまだ高みへ存在していたのだろう。だが、自分一人では届かないと思いながらも天井のスポットライトに恋焦がれる彼女の目には、仲間の姿はよく見えない。そして、かつて自分が光っていたことも、既に忘れてしまっている。

注5……俺が東ゆうを本格的に好きになりだしたのはこのシーン辺りだと思う。この手のキャラは大抵「煌めく舞台の裏側」を受け入れてその枠組みの内側で輝こうとするが、東は他の三人とは異なり明らかに納得いっていない。彼女は本気でアイドルを信じ、アイドルに殉じようとしている。


③暗闇を照らす光として

 東西南北が解散して夢を絶たれた東は学校でも孤立していく(後述)が、転落する中で自分という存在を見つめ直す必要性に気づかされる。母親の「性格が悪いところもそうじゃないところもある」という一言と、直後のベランダで泣くシーン(注6)は東ゆうという人間を象徴している。

 序中盤はアイドルの曲が絶えず流れていた明るい自室は消灯され、風の音以外静かな空間で東はひとり涙を流す。それまでがむしゃらに突き進んでいるように見えた彼女の弱さと、それを誰にも見せまいとしてきた強情さが同居するシーンの後、彼女は自らを客観的に見てきた亀井を訪ね、ようやく自らの過去と向き合う。そこで知ったのは、東がかつて光っていたこと、亀井にとってのヒーローであったという事実だった。

 主観から客観への転換は、観客の視点にも影響を与える。アイドルに執着する彼女に共感できず、しかしその視点からのみ物語を捉えてきた観客は、ここから少しずつ彼女に対する視線を変化させる機会を得る。そして、ファンでいてくれたサチがリクエストしたあの頃の曲によって、四人は再会することとなる。正直、以降は語るだけ野暮な気もするが、東のエゴが良くも悪くも他人の人生を変えるきっかけになったことだけは確かだろう。そうして彼女はこれまで自らの光で照らしてきた周囲の人々に後押しされ、再び芸能界へと戻っていく。今度は、自らの可能性を信じた状態で。

注6……サムネに選んだ東の泣き顔、めちゃくちゃ好き。俺もたまにこんな感じでベランダで泣くし。


④ルーティーンとラスト

 序盤からずっと、東ゆうは度々首元を押さえて息をする。これは彼女が計画を実行する=役に入るためのルーティーンであると推測でき、結果的に彼女は予想外の事態に幾度となく見舞われながらもアイドル計画を着々と進めていく。計画自体は高校生の浅知恵とも言うべきお粗末な代物ではあるが、周囲の優しさと自身の抱く野心に助けられて成功を積み重ねていく。

 だが、解散以降の東は役に入りこめない。久しぶりに登校して鏡の前でお決まりのルーティーンをしてもなお、クラスの意地悪な女子に対して真っ向勝負を挑むような発言をしてしまう。アイドルという夢を失った彼女は何も演じきれないという事実こそが、前掲した物語全体とそれを捉える視点の転換を助けている。つまり、夢を失った東は打算ではなく正直に他者と向き合わざるを得ず、それゆえに自らを再認識することができるという図式が示されている。

 ラストの一連の場面において、彼女はルーティーンをしない。その意味ははっきりとは明かされないが、ここで再び原作を持ちだしてみる。原作ではとある人物の一言で物語が結ばれるが、映画では東のモノローグで終わる。どちらもいい締め方ではあるが、おそらく映画版の展開に原作のラストを嵌めると違和感が生じてしまうだろう。
 なぜなら、彼女は既に知っているから。自分の性格と諦めの悪さを。応援してくれる人々の眼差しを。共に被写体となった仲間たちの優しさを。
 そして、自分も光れるのだということを。



 

その他言いたかったこと

・ライブシーンが迫力に欠けていたけど、製作側の意図も入っている気がする。シーンのいくつかにスタッフが映りこんでいたのも、華鳥の言う「大人の力に流される」四人を描写する演出の一部だったかも。変に考えすぎ?

・原作だと四人ともいい性格してて笑った。映画では繊細に刺抜きしてあるからこそ、東のエゴイスティックな性格が一層映えたのかもしれない。

・誰かがツイートしていた、華鳥も共犯者だという考えには納得した。彼女はテニス部で冷遇されていたからこそ、そこから引っ張り出してくれた東に心酔し、彼女の行動力に甘える形で「冒険」を続けていた。そういう甘えはあるけれど、最終的に東を止めようとしたのもまた彼女で~(眼鏡クイクイ)

・大人に明確な悪人が存在しないの、作者の経験とか思想が出てそう。芸能界は闇も濃い場所だけれど、それは善良な人間も歪なシステムに組み込まれることで生まれている……とか今考えた。作者の方よく知らないのでこれ以上は何も言えませんが。

・これ書いてる途中に「写真でサチだけ顔見えてないのおかしくない?」という批判を見かけた。確かにそうだし俺も彼女の笑顔をもっと見たいけど、東たちがカメラ目線ではなく友達の方を向いて満面の笑みを浮かべていることが重要なのでそこは譲れない。あとヴェールつけてるし顔見えない方がいい気もする。

・ジジイの声は本当にふざけてると思った。番組のタレントとか芸人に声当てとけよ。


 


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