(156)史上から「倭人」が消えた日

156バジャウ族

バジャウ族(BUSINESS INSIDER)

 『梁書』諸夷伝東夷条倭は、前述したように「倭者自云太伯之後」(倭は自ら太伯の後と云う)で始まります。つまり条建て(章・節の主題)は「倭」ということになります。文中に「倭人」の文言はなく、段落を変えて「倭國」が1回だけ出てきます。「倭國」は条建てにはなっていません。

 そこから華夏の古文献をさかのぼると、梁の前代の斉王朝を描いた『南斉書』、前々代の宋王朝の『宋書』はともに「倭國」です。『晉書』東夷伝の条建ては「倭人」、帝紀では「倭」「倭人」「倭國」が確認できます。『三國志』魏書東夷伝の条建ては「倭人」で、文中に「倭」「倭國」「女王國」が出てきます。

 『後漢書』東夷列伝の条建ては「倭」で、文中に「倭國」「倭」「女王國」があります(「倭人」は出てきません)。『漢書』地理志燕地条と『論衡』は「倭人」のみ、『山海經』は「倭」のみという具合です。

 書物が編纂された時期で整理すると、「倭」のみ(山海經:紀元前10世紀~紀元前後)→「倭人」のみ(漢書/論衡:紀元後100年ごろ)→「倭人」が主、「倭」「倭國」は編者の知見(三國志:280年ごろ)→「倭」が主、「倭國」は編者の知見(後漢書:445年ごろ)→「倭國」のみ(宋書:513年/南斉書:537年)→「倭」が主、「倭國」は編者の知見(梁書:629年)→「倭人」(晉書:648年)という順番です。

 まず「倭」という地域が認識され、次に「倭の人」が登場したように見えます。ですが、それは現代式の理解です。華夏の史書における四夷の名は、華夏宮廷吏僚が付した識別子に過ぎません。

 強いて言えば「種族」の名ですが、人類学的な意味の「種族」ではありません。言語、習俗、生業、祖霊、祭祀などを共有する政治的・軍事的集団の識別子であって、固有の祖霊や祭祀を捨てて華夏に帰順すれば、彼らは「中国人」として扱われました。

 つまり「倭」は地域の名称ではありませんし、「倭人」は「倭の人」のことでもありません。華夏の知識でいえば、「倭」も「倭人」も種族の呼称にほかなりません。やや時代が進んで理解が深まった結果、人がましく扱って「倭人」の表記が生まれたのでしょう。

 『晉書』の条建ては再び「倭人」に戻っています。ところが、その12年前の貞観十年(636)に第1次の編纂が終わった『隋書』は、最初から最後まで「俀國」(倭國の誤記とされています)です。『晉書』は原資料に忠実で、編者(房玄齢、李延寿ら)は自分たちの知見を加えていないようです。

 すると華夏における知見は紀元前から紀元前後までが「倭」、4世紀末までは「倭人」、5世紀以後は「倭國」だったことが分かります。その意味で、ワカタケル大王による専横的権力の行使が、華夏宮廷吏僚の認識を「倭人」から「倭國」に転換したのでしょう。

 ただ、それでも『梁職貢圖』倭國使像の謎は残ります。ワカタケル大王の死後、「倭國」は華夏に使者を派遣していませんが、蕭繹は梁王朝に倭國の朝貢があったことを主張しています。強いて理屈をこねるなら、梁の皇帝が朝見したのは、華夏宮廷知識人や吏僚が「太伯の後」と納得できる「倭人」、すなわち6世紀にあって海洋交易と漁労を生業としていた異族の使者、というほかないのです。

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