(91)焦点は空白の150年間


091馬韓と乾田耕馬

乾田耕馬(農業農村整備情報総合センター)

北東アジアにおける非華夏族の話をしてきたのは、朝鮮半島から倭地へ渡来してきた人たちの実体を探るのが目的でした。気候変動や華夏帝国の勢力拡縮を背景とする非華夏種族の動向から、紀元前2世紀から紀元前後ごろは馬韓の人々、西暦2世紀後半から3世紀初頭にかけては辰韓(秦韓)の人々ということが類推されます。

東シナ海、黄海、渤海の沿岸にコロニーを形成し、漁撈と交易を生業としていた複合種族連合(原倭人)が、水稲耕作を獲得したことによって陸上に上がり、現地で朝鮮(箕氏=韓)、州胡、倭人といった種族形成が始まります。3世紀倭地(九州北半)における倭人は、原倭人社会が馬韓からの入植者を受け入れ、馬韓系入植者が宗教的女王を推戴して原倭人社会を主導する構造だったのでしょう。

ついでながら、馬韓になぜ「馬」の文字が使われるか、あるいはなぜ「マハン」と呼ばれたのか、その由来は定かでありません。「乾田馬耕」という熟語から「馬=畑」の意味か? とは思うものの、そもそもこの4文字熟語は明治初年に生まれたものですから、直接の結びつきはありません。

また、「魏志韓伝」記載の「馬」文字を持つ邑國は「乾馬」國だけです。それに対して「倭人伝」には投馬、邪馬壹、斯馬、邪馬の4國、さらに官名に兕馬觚、伊支馬、彌馬升、彌馬獲支が見えています。マハンの人の入植地、マハンの官の意味なのでしょうか。

さて、北東アジアにおける非華夏種族の移動と倭地の動静に関連して、次の関心事は3世紀後半から5世紀初頭まで約150年間、倭地に何が起こったか、に移ります。華夏の古文献に記されている年次でいうと、晋の泰始二年(266)「十一月己卯倭人來獻方物」から、義熙九年(413)「是歳高句麗・倭國及西南夷銅頭大師並獻方物」まで、いわゆる「空白の4世紀」「謎の4世紀」です。

「倭人伝」が伝える倭地は気候温暖、倭人は温厚従順で礼節遵守です。大きな諍いは正始八年(247)の卑彌呼女王・邪馬壹国と卑彌弓呼王・狗奴國の「相攻撃状」ぐらいです。韓地や高句麗族との組織的な戦闘は、気配すらありません。

卑彌呼以死大作冢徑百餘歩狥葬者奴碑百餘人」とは記していますが、これが大型古墳を指すのかどうか定かではありません。 漢・魏の300歩=1里=434mから計算すると「徑百餘歩」は110m超の大型墳墓となります。しかし帯方郡からの道里から割り出された1里=65mを元に計算すると、20m超にとどまって、吉野ヶ里で発見された長方形墳(南北40mX東西27mX高2.5m)に及びません。

ところが5世紀になると、堺市・羽曳野市にまたがる百舌鳥・古市古墳群が示すように、中央集権的ないし武断的な強権力が登場します。政治、経済、宗教、文化の集積地は博多平野から畿内に移り、奈良盆地の三輪山麓(唐古・纒向)と河内の2朝並存の政治状況が類推されるようになってきます。

さらに大型古墳の分布から、各地に王権が存在し、群雄が割拠しする戦国時代のありようを呈していたことすら推測されています。王権の性格がガラッと変わったのです。

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