(89)「魏志」東夷伝の世界


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北朝鮮の蓋馬高原

「魏志」東夷伝を概観すると、著者・陳寿ないし3世紀の華夏宮廷知識人の東夷に対する認識と、倭人の位置づけが見えてきます。

東夷伝に記載があるのは、夫餘、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓(三韓)、倭人の6族です。このうち「王」がいるのは高句麗、濊、倭人、「國」が確認できるのは韓と倭人です。

夫餘は、「在長城之北去玄菟千里南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接北有弱水方可二千里戸八萬」(長城の北、玄菟を去る千里に在り。南を高句麗、東を挹婁、西を鮮卑に接し、北に弱水有り。方二千里、戸八万ばかり)とあって、玄菟=丸都(現在の吉林省集安市)の北方に展開していました。

高句麗はその南にあって、「遼東之東千里南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接都於丸都之下方可二千里戸三萬」(遼東の東千里、南は朝鮮濊貊、東は沃沮、北は夫餘に接す。丸都の下に都し、方二千里戸三万ばかり)でした。

東沃沮の居住地は「在高句麗蓋馬大山之東濱大海而居」(高句麗蓋馬大山の東に在り、大海に浜に居す)とあって、現在の北朝鮮・咸鏡南道あたり、高句麗条の「東與沃沮」のことです。

沃沮が東西に分裂していたとすると、西沃沮が高句麗という推測が働きます。蓋馬大山が現在の蓋馬高原を指すのか白頭山のことなのか分かりません。

濊は「南與辰韓北與高句麗沃沮接東窮大海今朝鮮之東皆其地也戸二萬」(南は辰韓、北は高句麗、沃沮に接し、東は大海に窮まる。いま朝鮮の東は皆その地なり。戸二万)です。紀元前1~2世紀に居住していた沿海州から朝鮮半島の東側まで南下したわけでした。

この続きが韓(三韓)と倭人です。

韓は「在帶方之南東西以海為限南與倭接」(帯方の南に在り、東西は海を以て限りとし南は倭と接す)ですから、いちばん北から夫餘、高句麗、帯方郡、韓(三韓)、倭人という配置で、地理感覚は意外に正確です。

華夏の宮中知識人は、楽浪故地(遼寧地方)にあった箕子朝鮮國の哀王が南に逃れ、改めて韓地に王国を建てたと考えて(信じて)いたようです。史実かどうかは別として、朝鮮半島の南部に「韓」の名が付されたのは、華夏大陸の北東部=燕地(楽浪や真番)に韓姓を名乗る王族がいたこと、それは戦国七雄の「韓」に由来することに行き着きます。

諸族のテリトリーを見ると、夫餘と高句麗は「方可二千里」、韓は「方可四千里」、倭人は「周旋可五千里」です。濊は記述がありません。4より5のほうが大きいのですが、韓は4千里×4千里、倭人は周囲5千里(円なら直径1700里弱)です。2千里×2千里に及ばず、6族のなかで最も小さいことになります。

戸数は夫餘が「八万」、高句麗が「三万」、東沃沮は「五千」、濊は「二万」、韓のうち馬韓は「十余万」、倭人は合計すると十五万以上です。

気候や習俗、家屋の大きさ(広さ)によって1戸当たりの人数が異なるとしても、倭人は人口密度が高かったように見えます。 それは食糧の豊かさを示しています。

気候は温暖で人の気質は温厚で従順。当時の北東アジアにあって倭人は経済大国で、華夏の人たちにとっては理想郷だったのです。

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