(67)窓口は率善中郎将難升米
中国の歴史ドラマに登場する中郎将
「倭人伝」の解読で着目されていないのは、魏帝国あるいは帯方郡にとって、倭人(邪馬壹國/卑彌呼女王)はどのような存在だったのか、ということです。魏帝国はなぜ「邪馬壹國」を手厚く処遇したのでしょうか。
「邪馬壹國」に対する魏帝国の厚遇は、
1.景初二年(238):「邪馬壹國」からの遣使に際して、
①使節団を「京師」(洛陽)に送り届けた。
②大使・難升米に「率善中郎将」、副使・都市牛利に「率善校尉」の官位と銀印青綬を与えた。
③卑彌呼女王に宛てた詔書を発布した。
④「親魏倭王」に叙し金印紫綬を下した。
⑤過分の下賜品を贈っただけでなく、卑彌呼女王に「汝好物」の白絹、金、銅鏡などを下賜した。
2.正始元年(24 0):難升米、都市牛利らの帰還に際して、建中校尉梯儁を団長とする返礼使節団を送った。
3.正始四年(243):倭王の使者・伊聲耆、掖邪狗に「率善中郎将」の銀印青綬を与えた。
4.正始八年(247):「倭載斯烏越等」が郡役所に来て、狗奴國と「相攻撃状」を説明した。
①帯方郡はただちに塞曹掾史張政等を派遣し
②「因齎詔書黄幢拜假難升米為檄告喻之」(詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄文を為して之を告諭す)
1について、景初二年(238)ではない、という指摘があります。同年8月まで、同地は公孫「燕」國の支配するところでしたので、景初三年(239)が正しいというのです。
仮に景初三年だったとしても、玄界灘や対馬海峡の潮流、波高からすると、卑彌呼女王の使節団が海を渡ったのは7月末から9月末、洛陽に入ったのは晩秋・初冬のころだったでしょう。
魏帝国にとって、「邪馬壹國」は、初めて使節団を送ってきた新参者です。当時の北東アジア世界で女王が珍しい存在であったとしても、また「汝所在踰遠」(汝の所はるかに遠く)であったとしても、いきなり皇帝に目通りさせることがあるでしょうか。
238年の秋口、魏帝国第3代の明帝(曹叡)は病床に伏せっていました。明帝は翌年1月に死去し、第3代少帝(曹芳)が即位しています。新帝の即位を祝うという名目であったなら、大量の過分な下賜品の意味が理解できます。
それはそれとして、魏帝国が難升米に重きをおいたのは明らかです。難升米に与えられた「率善中郎将」という位は、俸禄6千石相当の軍令官です。われわれが思う以上の高官なんですね。
狗奴國との戦いにあって、難升米は詔書と黄幢を授けられていますので、魏帝国が難升米を倭人側の将軍(軍トップ)と見なしていたことが分かります。
以下は空想の範囲なのですがーー。
「邪馬壹國」というより「伊都國」を中心とする筑紫倭人連合は、魏帝国に呼応して公孫「燕」國と呉帝国の連携を妨害していたのではないか、と思います。難升米が伊都國王に直属する筑紫倭人連合軍の長だったとすると、「燕」國滅亡の直後に帯方郡に出向いた疑問が氷解します。
異族ながら長年の友軍であればこそ、帯方郡は歓迎したのですし、筑紫倭人連合は呉帝国と連携する狗奴國とは対立する関係にありました。「素不和」だったのは伊都国王と卑弥弓呼王だったのではないかと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?