(188)阿毎は「アメ」音の写しか

188阿毎は「アメ」音の写しか

大彦命を主祭神とする敢國神社(伊賀市)

 筑紫王家の子孫追跡の続きです。

 といいながら、『書紀』が記す筑紫國造の始祖から話を始めます。

 『書紀』は筑紫國造の始祖はオホヒコ(大彦/『古事記』は「大毘古」)としています。第8代クニクル(大日本根子彦国牽:孝元)大王の2男、第9代オホビビ(稚日本根子彦大日日:開化)大王の弟、第10代ミマキイリヒコ(御間城入彦五十瓊殖:崇神)の義父(ミマキイリヒコのミマキ正妻ヒメの実父)に当たる人物です。

 「ヒコ」は男性の一般的な尊称なので、「オホヒコ」は架空の存在と言っていいと思います。第13代ワカタラシヒコ(稚足彦:成務、この大王も架空の存在ですが)のとき、その5世の孫「タヂ」(田道)が筑紫國造に任じられたことになっています。ただし、この情報は物部氏の家伝である『先代舊事本紀』に依っています。

 本稿の見立てでは、「筑紫」の名は4世紀末か5世紀初頭、朝鮮半島の全羅南道・栄山江中流域(光州広域市付近)から倭讃が王城を南遷させたときの命名によっています。従って倭讃の王統が『書紀』がいう筑紫國造ということになります。

 倭讃の息子・倭王済のとき、筑紫王家の分家が海洋交易の元締めである物部一族の導きで難波に起居を移します。王族だけが移り住んだのではなく、郎党小者もろともですから、王統の東西分裂と言っていいでしょう。

 475年、倭王武は百済の王女との間に生まれた王子(昆支王)を熊津(復興百済の王都)に送り、昆支―東城―武寧の3代にわたる倭・済連合を形成します。武寧王の長男・淳陀が筑紫王となり、その息子・磐井が物部麁鹿火が放った刺客の手で謀殺され……というのが、あることないこと織り交ぜた小説的解釈としておきましょう。

 ここで『隋書』東夷伝俀國条の「開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕」(開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思比孤、號は阿輩彌、使を遣して闕に詣る)が登場します。「開皇」は隋帝国初代煬帝の年号で、その二十年は西暦600年に当たります。大業四年(608)に文林郎裴世清が「俀國」に遣いして王と面会していますので、頭から「信用ならぬ」と決め付けることはできません。

 「イ+妥:俀」については「倭の誤記」説、「邪馬壹を邪馬台と誤解したうえで台の意」説など諸説があるにで、ひとまず「倭」と同意ということにして(いろいろ難しい問題があるのでスルーします)、ここでは「王の姓は阿毎、名は多利思北孤、号は阿輩彌」を取り上げます。

 教科書日本史は倭王統=大和王家という前提なので、天皇家に姓があったことを認めたがりません。そこで「阿毎」に「アメ」の音を当てて「天」の意味だろうと推測しています。また「多利思北孤」をタラシヒコ」と読んで、アマタラシヒコ=天足彦=天の下を治める男王、と解釈するのです。

 いやいや、それはおかしいでしょう――と異議が出るのは当然です。開皇20年(600)の倭國王はカシキヤヒメ(豊御食炊屋姫)またはヌカタベ(額田部)女王、すなわち推古女帝だったはずです。倭國を代表して隋帝国の使節団と面会するアマタラシヒコに相当する王族も見当たりません。

 「阿毎」ははたして「アメ」の音なのでしょうか。

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