(198)ほとんど"捏造"に近い忖度

198隋書の視点は筑紫

済州島と半島九州島の位置関係

 この連載は200回で終わりにするつもりなので、残されているのはあと3回です。そこで今回は倭國史"最後の謎"であるウマヤド(厩戸)王ないし『隋書』の「俀王姓阿每字多利思北孤號阿輩雞彌」に迫ります。

 倭國の王統史は二重三重、場合によっては四重五重の修正が重ねられているのでタチが悪いのですが、どう頑張っても修正できない場合、『書紀』は

 ――無視。

 を決め込んでいます。

 なかったことにしてしまうので、検証のしようがありません。

 その代表が『隋書』東夷伝「俀國」条です。

 そもそも「倭」とあるべきところが「イ+妥=俀」の文字になっています。教科書日本史では「倭の誤字または写筆の際の誤記である」ということになっていますが、1度ならず7回も出てくるのに、1つとして「倭」の文字が使われていません。ということは、原本に「俀」とあったからに違いありません。

 『隋書』が勅撰されたのは隋帝国が滅びた18年後、唐の貞観十年(636)でした。編者の顔師古や孔穎達らにとっては、まさに現代史です。しかも630年には、犬上御田鍬を大使とする第1回目の遣唐使節団が長安を訪れています。にもかかわらず、顔師古や孔穎達らは「俀」と表記しています。

 九州王朝節ではこれを、「大委」(倭の原意は委という視点)の音と解釈しています。倭地の国だけれど、現在の倭國(ヤマト王権)ではなく、金印「漢委奴國王」の時代から通交がある旧知の倭國(九州王権)、というわけです。

 その『隋書』は「俀國」への道里を、「度百濟行至竹嶋南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國」(百済より竹嶋に渡り聃羅國:済州島を南望し、大海のなか都斯麻國:対馬を経てまた東して一支國:壱岐、また竹斯國:筑紫、また東して秦王國に至る)と表記しています。さらに「又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀」(また十余國を経て海岸に達す。竹斯より以東はみな俀に附庸す)と書いています。

 大業四年(608)に倭地を視察した「文林郎裴淸」(裴世清:唐2代太宗:本名「李世民」の「世」の文字を避諱した)の出張報告書が元になっているのでしょう。文林郎は皇帝の秘書局長のような役職ですが、実はヒ氏(非/卑とも、卑弥呼、卑弥弓呼もヒ氏でした)の後裔という意味で団長に選任されたのだと推測されます。

 ヒ氏は秦の始皇帝の遠祖とされ、華夏における門閥を形成していました。その族長ですから、お付きの役人だけでも数十人、護衛を入れると数百人の大デレゲーションだったはずです。

 それはそれとして、記事を読む限り、一行は「竹斯」から先(東)には「秦王國」までしか行っていません。「以東皆附庸於俀」なのです。「俀」がヤマト=大和:奈良県だったら、「以東」は「以西」でなければなりません。『隋書』の視点は筑紫に置かれています。

 すると、「俀王姓阿每字多利思北孤號阿輩雞彌」は、自ずから筑紫の王のことになってきます。いやこのとき『書紀』が伝えるヤマト王統の大王はカシキヤ女王(推古)なのだから、摂政であるウマヤド(厩戸)王のことだろう、というのは非論理的な推測(ほとんど"捏造"に近い忖度)です。

 俀王の姓はアモ/アボ(本稿は「アベ」説)、字(名)はタリシホコ、号はアハキミというところからスタートしなければなりません。


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