(90)沃沮人は倭人を知っていた

090青銅の刀子

三崎山(山形県遊佐町)から出土した殷時代の青銅刀子

「魏志東夷伝」を読むと、教科書日本史に出ていない「これは?」と思う記事が見つかります。1つは序文にある「景初中大興師旅誅淵又潛軍浮海收樂浪帶方之郡」が1つ、もう1つは「遣偏師致討窮追極遠踰烏丸骨都過沃沮踐肅慎之庭東臨大海。長老説有異面之人近日之所出」と一対をなす高句麗条の文章です。

読み下すと、前者は「景初中、大いに師旅を興して淵を誅し、また潜かに軍を海に浮かべて楽浪・帯方の郡を接収す」、後者は「偏師を遣って致討し、追討を窮めて遠方を極め、烏丸・骨都を踰え、沃沮を過ぎ、粛慎の庭を踐み、東のかた大海に臨む。長老が説くに、異面の人、日の出る所の近くに有り」となります。

「景初中……」の文は、景初二年(238)、司馬懿(のち諡して晋の高祖宣帝)を総大将とする魏軍が公孫淵を攻めて燕國を滅ぼしたときのことです。

「軍浮海」とあって、司馬懿は燕國を海からも攻撃したことが分かります。その軍船や物資の輸送を倭人の青潮グループが担っていて、その中に馬韓の倭人が含まれていたかもしれません。

「遣偏師……」の文はちょっと解説が必要です。

それは東沃沮条にある次の記事「王頎別遣追討宮盡其東界問其耆老海東復有人不耆老言國人嘗乘船捕魚遭風見吹數十日東得一島上有人言語不相曉」(王頎、別に宮を追討し其の東界を尽くす。其の耆老(老人)に海東に復た人の有りやと問うに、耆老言うに、国人かつて船に乗り魚を捕らうるに風見に遭い吹かれること数十日、東に一島を得る。上に人有れど言語暁らかならず)です。

王頎は帯方郡で倭人の使節団を迎えた人物で、このとき将軍・毌丘儉と連動して高句麗王・宮と戦っていました。文中の「宮」は高句麗王国第11代の東川王です。毌丘儉が高句麗の丸都を陥落させた正始五年(244)のことでしょう。

この記事のあと「其俗常以七月取童女沈海」(其の俗、七月を以って童女を取り海に沈む)とあり、さらに「又言有一國亦在海中純女無男」(また言うには、亦た海中に一国あり、女だけで男無しと)の文が続きます。

童女を海に沈めると聞くと生贄を捧げる宗教儀式のようですが、海女の姿をそのように解したのかもしれません。また「純女無男」は、東海に女王國(女國)があるという伝説と結びつきます。

そこで古文に戻ると、ポイントは「長老説有異面之人近日之所出」です。「異面之人」は耆老の伝聞「有一人項中復有面」(項=首筋の中に復た面有る一人有り)を指しているのですが、「黥面=刺青をした顔」の意味でもあります。

沃沮の人は倭人を知っていたのです。 実際、山形県飽海郡遊佐町にある縄文後期の三崎山から全長26cmの青銅刀子、青森県の外ケ浜からはその模造石刀が、それぞれ出土しています。それは沿海州から日本海を渡って伝来したのだろうと考えられています。

華夏の知識人が黥面に高い関心を抱いていたのは、「夏后少康之子」が東海に移り住んで、「蛟龍之害」を避けるために斷髪文身をした、という伝承があったためでした。そのために漢字の「彦」は顔に刺青をした男子を指し、「顔」という文字の偏になっています。

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