(122)いかにも恣意的な比定
倭の五王:日本書紀と宋書
『宋書』に登場する5人の倭王(讃・珍・済・興・武)、いわゆる「倭の五王」が『書紀』の歴代大王の誰に当たるか――が長年のテーマでした。教科書日本史は「5人目の武王は第21代雄略天皇であることはほぼ間違いない」としています。その和風諡号「大泊瀬幼武(オホハツセワカタケル)」の「タケル」を「武」に置き換えたのだろう、というのです。
『書紀』はこの大王の治世二年条に「百濟新撰云己巳年蓋鹵王立」の注を入れています。引用されている『百濟新撰』という書籍は現存していません。
『三國史記』百済本紀によると、蓋鹵王が即位したのは455年で、干支は乙未に当たります。また5世紀の「己巳年」は429年か489年で、『書紀』『百濟新撰』『三國史記』の年紀が何に基づいたものか、途方に暮れてしまいます。いずれかが正しいとも、いずれも間違っているとも言えるのが悩ましいところです。
一方、『書紀』はワカタケル大王廿三年夏四月条に「百濟文斤王薨」(文斤王は『三國史記』三斤王)とも記していて、それは479年に当たります。この年の八月「天皇疾彌甚與百寮辭訣並握手歔欷崩于大殿」(天皇の病が彌甚:いよいよ激しく、百寮と訣辞と握手、歔欷:すすり泣くうち大殿で崩ず)でした。
崩年479年が動かないとなると、ワカタケル大王の即位は457年ということになってきます。そこでワカタケル(雄略)=倭武を起点に『宋書』の朝貢記事と系譜、『書紀』の王統譜を照合した結果、讃=応神または仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康とする案が示されています。ただし『宋書』は讃と珍、済と興がそれぞれ兄弟としていますが、親子関係は記していません。
『書紀』の王統譜によると、ホムダワケ(応神)―オホササギ(仁徳)―イザホワケ(履中)の3代は親から子に王位を継承し、イザホワケ(履中)・ミヅハワケ(反正)・ヲアサヅマワクゴノスクネ(允恭)は兄から弟の兄弟継承です(仁徳の長男が履中、3男が反正、4男が允恭)。そして允恭の三男がアナホ(安康)、五男がワカタケル(雄略)という関係です。 『宋書』と『書紀』が記す親子・兄弟の関係は、済―興・武の親子関係が允恭―安康・雄略と一致するにとどまっていて、珍と済の血縁関係は分かりません。
『宋書』の「倭讃」を『書紀』第15代ホムダワケ大王とする論拠は何かというと、
ホムタワケの「ホム」(ほめる)の意訳で「讃」
第16第オホササギ大王とするのは「ササ」の音を置き換えて「讃」
「珍」は反正の和風諡号「ミヅハワケ」の「ミヅ」(めずらし)の意訳
「済」は允恭の「ヲアサヅマワクゴノスクネ」の「ヅ」(津)の近似字
——といった具合です。
実名の一部を切り取り、かつ意訳するというのは、いかにも恣意的な比定方法に思えます。
とはいえ、『書紀』はホムダワケ、オホササギ、ワカタケルの3代に「呉」國との往来を記しています。呉は華夏の地歴書で長江以南、浙江省や福建省、安徽省と江西省など「華東」の地域のことなので、間接的にではあれ、宋との往来があったことを伝えています。『書紀』編者は『宋書』を知らなかったのでしょうか。
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