(84)海洋の民と天孫降臨伝承

084糸島市の日向峠

糸島市の日向峠(県道49号線)

律令制で国名が定められたとき、熊曽/熊襲を分割するかたちで「日向」が設置されました。宮崎平野に「ヒムカ」という古名があって、「日向」の文字を当てた、というのはこじつけのようで、本当はヤマト王統に始祖が『古事記 』に「天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」(竺紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流(くしふる)多気(たけ=峰)に天降る)という言い伝えがあったからでしょう。

『書紀』を編纂するに当たって、編者たちは伝承の裏付けを探し、事実である「証拠」を作りました。そこで九州にあって、東側が海に面している宮崎平野を、日に向かう国の意味で「日向」と名付けたのでした。物証の偽造するのではありませんから罪の意識は薄かったかもしれません。

ところで、天孫降臨の伝承を海洋の民である倭人が持っていたかというと、どうもしっくりきません。海洋の民は水平線の向こうや海の底に理想郷や神の国を描きます。天から高い山(独立峰)の降り立つというのは、草原の民の発想です。

実際、朝鮮族の始祖・桓雄は3千人の配下を従えて太伯山(テベクサン)の神壇樹(シンダンス)の下に天降りました。その子が檀君王倹(タングンワンゴム)となって、白岳山の阿斯達(アサダル)に国を建てたとされています。

一方、高句麗の朱蒙(チュモン)は卵から生まれ、新羅の朴赫居世(ヒョッコセ)は楊山の麓に天降った大卵から生まれました。『書紀』の伝承は朝鮮族の檀君神話の類型に属します。ニニギに五神(コヤネ、フトダマ、ウズメ、イシコリドメ、タマノオヤ)が随伴するのも朝鮮族の神話の形態です。

この神話の形が縄文のころからあったのか、後世どこかから入ってきたのかは非常に興味のあるところです。多くの論説は、弥生後期に朝鮮半島から入ってきたとしています。

まさに『後漢書』東夷伝がいう「桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主」、魏志「倭人伝」にある「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歷年」が、半島南部から集団が移入して時期に相当します。「桓靈間」とは西暦147年から189年です。

山口県土井ヶ浜遺跡だけでなく、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡からも、同時代の殺傷人骨が出土しているので、「倭国乱」は外部から移入してきた集団との摩擦だった可能性を認めないわけにはいきません。

博多平野で少数の半島が倭人を支配して青潮グループを形成し、筑後平野まで影響下に置いたものの、数において圧倒的多数の熊本平野以南の黒潮グループとの摩擦を回避するために、宗教王を共立した。それが『後漢書』東夷伝と魏志「倭人伝」の記事の理解です。

すると『書紀』降臨伝承の故地は糸島半島に求められます。

試しに「糸島市」「日向」で&検索としたところ、県道49号線に「日向峠」が見つかりました。次に「糸島市」「くしふる山」で検索すると、「高祖山」が出てきます。

Wikipedia「高祖山」には「高祖山には南にもう一つの峰があり、これを「くしふる山」と呼んでいた、と推定される」とあります。東征して奈良盆地に王権を樹立したのは、伊都王国の王統だった可能性が出てきました。

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